旧日本軍は「精神論」「玉砕」といったイメージで語られることが多く、実際に太平洋戦争末期は「バンザイ突撃」などを繰り返し、多くの犠牲者を出した。その一方、作家で元外務省主任分析官の佐藤優さんは「日本陸軍には極めて合理的で冷静な撤退戦マニュアルが存在していた。
その内容は現代企業のための優秀な経営書と評価されている」という――。
※本稿は、佐藤優『戦略の罠』(フォレスト出版)の一部を再編集したものです。
■なぜ日本の組織は「撤退」が苦手なのか?
戦争において、味方が優勢で攻勢を強めている時には、多少作戦が粗くとも勢いによって勝敗が決まることがある。しかし、本当に組織の力量が問われるのは、むしろ劣勢に立たされた時である。
前線を維持するのか。どこで後退するのか。何を捨て、何を守るのか。この判断を誤れば、組織は一気に崩壊へ向かう。その意味で、戦略とは単なる「勝利の技術」ではない。むしろ、「崩壊しないための技術」だと言える。
ここで重要になるのが、旧日本陸軍の『作戦要務令』である(『作戦要務令』からの引用文の表記は、大橋武夫『作戦要務令――その企業的研究』にならった)。
一般に旧日本軍というと、「精神論」「玉砕」「バンザイ突撃」といった非合理的なイメージで語られることが多い。
確かに、太平洋戦争末期の日本軍は、現実を無視した突撃を繰り返し、多くの犠牲者を出した。しかし、その一方で、日本陸軍には極めて合理的で冷静な撤退戦マニュアルが存在していた。
それが『作戦要務令』である。
そこには――
◎不利な状況でどう戦力を維持するか

◎どのように撤退線を設定するか

◎いかに組織崩壊を防ぐか

◎ 限られた時間と資源の中でどう意思決定するか
――といった問題が、驚くほど論理的に整理されている。
■旧日本陸軍『作戦要務令』は優秀な経営書
戦後、この教範を経営論として読み直した元陸軍参謀の実業家・大橋武夫は、『作戦要務令』を「現代企業のための優秀な経営書」と評価した。そこには、状況判断、決心、命令、監督を循環させる組織運営論が存在しているからである。
実際、本章で扱う問題は軍事だけに限らない。
企業もまた組織であり、同様に次のような問題を抱えている。
◎撤退できない

◎過去の成功体験に拘束される

◎現場が硬直化する

◎不完全情報の中で決断できない
そして現在、日本社会そのものが、そうした「撤退不能」の問題に直面している。重要なのは、優勢な時にどう前進するかではない。不利な状況で、どう生き残るかである。
本章では、『作戦要務令』を手がかりに、「撤退」という視点から、日本型組織の本質を読み解いていく。

■撤退は敗北ではない
一般的に、旧日本軍というと、「玉砕」「精神論」「一歩も退かない」というイメージで語られることが多い。しかし、実際の『作戦要務令』を読むと、そこには極めて現実主義的な戦略思想が書き込まれている。
その典型が「撤退戦」に対する考え方である。『作戦要務令』では、退却戦について次のように規定している。
「退却戦闘指導の主眼は速(すみや)かに敵と離隔(りかく)するに在り」
ここで重要なのは、「敵を撃破すること」ではなく、「速やかに離隔すること」が主眼とされている点だ。
つまり、『作戦要務令』において、撤退は敗北ではない。組織を生き残らせるための戦略的判断なのである。ここには、旧日本軍に対する一般的イメージとは異なる、冷徹な合理主義が存在している。
■戦略とは「勝利」ではなく「生存」の技術
戦争において、本当に重要なのは「その戦闘に勝つこと」ではない。組織そのものを崩壊させないことである。戦線が不利になった時、重要なのは「勇敢に戦い続けること」ではなく、どこまで後退し、どこで戦力を再編し、どの資源を残すかという判断になる。つまり、戦略とは「勝利」ではなく、「生存」の技術なのである。

戦後、この『作戦要務令』を企業経営論として読み替えた人物がいる。前述した元陸軍参謀の大橋武夫だ。大橋は、戦争末期に第五三軍参謀として本土決戦準備に関わり、戦後は倒産企業の再建にも携わった。
『作戦要務令』について、大橋は「組織の効果的運用を説いた優れた経営書」であると評価している。特に重要なのが、撤退に関する次の指摘である。
「負けたための損害は想像するほどのものではなく、退却がまずいために受ける損害が意外に大きく致命傷となり、ほんとうに負けるのである」
これは現代企業にもそのまま当てはまる。多くの組織は、「敗北」そのものではなく、「撤退できないこと」によって崩壊するからである。
現在、世界は新・帝国主義の時代に入っている。そのため、アメリカ、中国、ロシアという巨大国家の圧力の中で、日本は戦後型の成功モデルを修正せざるを得なくなっている。しかし、多くの日本人はいまだに、「グローバル化は正しい」「市場は拡大し続ける」「成長こそ正義」という戦後の成功体験から抜け出せない。
ここに「戦略の罠」がある。
過去の成功モデルが、未来において組織を拘束し始めるのである。
『作戦要務令』が教えているのは、この逆だ。重要なのは、「いかに勝つか」ではない。「いかに崩壊しないか」である。時に後退し、時に戦線を縮小し、時に不利な戦場から離れる。その上で、戦力を維持し、次の局面へ備える。
撤退とは敗北ではない。生存するための高度な戦略なのである。
■「慎重」であることによって敗北招く
『作戦要務令』を読むと、旧日本陸軍が「時間」という要素を極めて重視していたことがわかる。
戦争とは、単なる戦力のぶつかり合いではない。限られた時間の中で、いかに状況を判断し、決断し、命令を伝達し、戦力を動かすかという「速度」の競争なのである。
『作戦要務令』には次のような記述がある。
「兵を用うるときの害は、猶予を最大とす」
ここでいう「猶予」とは、ためらい、先送り、決断の遅れを意味する。
つまり、『作戦要務令』は、「最大の失敗は誤った判断そのものではなく、決断が遅れることだ」と考えているのである。
これは極めて現代的な視点だ。現代社会では、「失敗しないこと」が過剰に重視される。その結果、多くの組織が「決められない組織」になっている。
会議を繰り返す。稟議を回す。前例を確認する。責任問題を恐れる。その間にも市場環境は変化し続ける。つまり、組織は「慎重」であることによって敗北するのである。
ここで重要なのは、『作戦要務令』が「正確な判断」を否定しているわけではない点だ。問題は、戦場では「完全な情報」が永遠に揃(そろ)わないことである。
だからこそ、不完全な情報の中でも決断しなければならない。戦争では、100点の判断を待っている間に状況そのものが崩壊する。
東芝はできなかったが、ホンダはできた
これは現代企業にも完全に当てはまる。
例えば東芝の問題は、原子力事業へ参入したことそのものだけにあったのではない。問題は、「修正のタイミング」を失った点にある。2006年のアメリカの原子力企業・ウェスチングハウス買収後、巨額損失の兆候は比較的早い段階から現れていた。
しかし東芝は、「技術立国日本」「総合電機メーカー」「国家戦略」といった巨大な物語に組織全体が拘束され、撤退や縮小の判断を先送りし続けた。つまり、現実の変化よりも、「過去の成功体験」と「組織の自己イメージ」を優先してしまったのである。その結果、損失は拡大し、組織全体が深刻な危機へ陥った。
『作戦要務令』的に言えば、これは「猶予」の失敗である。重要なのは、最初の判断が正しかったかどうかではない。環境変化に応じて、どれだけ早く修正できるかなのである。
一方、ホンダは異なる動きを見せた。ホンダは2020年代前半、中国市場とEV市場への大規模投資を進めた。しかし、世界的なEV需要減速、中国メーカーの急速な台頭、さらに第二次トランプ政権による環境規制緩和によって、市場環境は急激に変化した。
ここでホンダは、「正しいかどうかわからないから様子を見る」という姿勢を取らなかった。むしろ、不確実な状況の中で迅速に戦略修正へ踏み切ったのである。北米向けEV計画の見直し、ソニーとの「AFEELA(アフィーラ)」計画停止、中国事業再編、人員削減――。これらは短期的には巨額損失を伴う。しかし、『作戦要務令』的視点から見るならば、これは「戦力温存」のための迅速な再配置なのである。
■「正しい判断」より「早い判断」が重要
ここで重要なのは、「正しい未来予測」が存在していたわけではないという点だ。EV市場が再拡大する可能性は十分にある。しかし、戦略において重要なのは、「未来を完璧(かんぺき)に当てること」ではない。変化に対して、どれだけ早く適応できるかなのである。
つまり、「正しい判断」よりも、「早い判断」の方が重要になる場合がある。
特に、新・帝国主義の時代では、この傾向がさらに強まる。
なぜなら、現在の世界では、アメリカの政権交代、中国経済の減速、AI革命、エネルギー価格変動、地政学リスクなどによって、前提条件そのものが高速で変化しているからだ。
つまり、「安定した前提」が消滅しているのである。その中で、「慎重に検討してから決める」という戦後日本型組織モデルは、むしろ致命的な弱点になる。
『作戦要務令』は、この問題をすでに1930年代に理解していた。戦場では、迷った瞬間に主導権を失う。そして、主導権を失った組織は、防御側へ追い込まれる。
ここで重要なのは、「遅れ」は単なるミスではないという点だ。それは構造的敗北なのである。だからこそ、『作戦要務令』は、状況判断、決心、命令、監督を一つの循環として高速化しようとした。
つまり、戦略とは、「正解探し」ではない。変化する現実の中で、いかに早く動けるかという問題なのである。

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佐藤 優(さとう・まさる)

作家・元外務省主任分析官

1960年、東京都生まれ。作家、元外務省主任分析官。1985年、同志社大学大学院神学研究科修了。外務省に入省し、在ロシア連邦日本国大使館に勤務。その後、本省国際情報局分析第一課で、主任分析官として対ロシア外交の最前線で活躍。2002年、背任と偽計業務妨害容疑で逮捕・起訴され、2009年6月に執行猶予付き有罪が確定。2013年6月、執行猶予期間を満了し、刑の言い渡しが効力を失った。著書『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』(新潮社)で毎日出版文化賞特別賞受賞。『自壊する帝国』(新潮社)で新潮ドキュメント賞、大宅壮一ノンフィクション賞受賞。

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(作家・元外務省主任分析官 佐藤 優)
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