定年後の「第二の人生」に夢を描いたものの、つまずいてしまうケースは少なくない。家計再生コンサルタントの横山光昭さんは「独立自体は決して悪いことではないが、その選択が家計に与える影響について、夫婦でどこまで具体的に話し合えているか。
コミュニケーション次第で、老後の運命は大きく分かれる」という――。
■60歳定年で独立起業したものの
「個人年金を投資に回したいんですが……」
今から約5年前のこと、広島市在住の高橋浩一さん(仮名・60歳)、由美子さん(仮名・55歳)ご夫妻が、当社に相談にいらっしゃいました。
浩一さんは60歳の定年を機に、多くの人が選ぶ再雇用の道ではなく、長年勤めた地元の中小企業を退職。夢だった、話し方やビジネスマナーを教えるスクールを作り、経営者兼講師として独立することを決意していました。
由美子さんは会社員(正社員)としてそのまま働き続け、浩一さんの事業が軌道に乗るまでは、仕事が休みの日に経理や教室の受付といったサポートをする方針。そんなご夫妻の初回相談は、資産を増やしたいという非常にポジティブな内容でした。
「退職金の1000万円は自宅のリフォーム代(400万円)や、開業費用(600万円)にほぼ充ててしまうので、老後資金としては当てにできません。ただ、払い込み済みの個人年金保険を、年60万円ずつ10年間受け取れるので、これを投資に回したい。その場合、独立後の生活が成り立つのかどうか、資産寿命はどのくらいになるのか、ライフプラン表を作っていただけないでしょうか?」(浩一さん)
この時点で、浩一さんは「開業1年目に発生する経費や赤字は退職金で補い、2年目は収支トントン、3年目からは黒字化していく」という想定を立てていました。3年目で黒字の根拠を尋ねたところ、「絶対にうまくいく」の一点張り。何か秘策があるのだろうと、ひとまず浩一さんの想定をもとに、ライフプラン表を引きました。
■単発の受講者はいても、続かない売り上げ
それから約3年後。
浩一さんの事業プランはまさに絵に描いた餅で、実際は売り上げがほとんどなく、経費ばかりが雪だるま式に増えていたことが判明しました。
浩一さんは集客に力を入れていました。スクールのホームページの制作費や地元新聞への広告費。加えて周知のために、知人・友人相手にたびたび飲み会を開いては大判振る舞いをするといった「交際費」もバカになりません。経費の出どころは、すべて夫婦の貯蓄や日々の生活費です。事業資金として金融機関からの借り入れは一切行わず、開業費用や運転資金はすべて自己資金から捻出していたのです。
その甲斐あり、集客自体はゼロではなく、話し方やマナーというテーマに興味を持つ受講者は、ぽつぽつと現れたそうです。しかし、1回の受講で満足してしまう方がほとんどで、リピーターにならず。結果として、月々の売り上げは1回分の受講料が数回入る程度にとどまり、事業としての安定収益にはつながりませんでした。
毎月、家計に入ってくるのは由美子さんの仕事の手取り約25万円のみで、それ以外の支出は貯蓄を切り崩してまかなっていました。家計を見せていただくと、毎月の赤字額は月5万円近くが常態化。
相談開始時、退職金とは別に約2100万円の資産がありました。

① 浩一さんの個人年金保険600万円(年60万円×10年)

② 由美子さんのiDeCo300万円とNISA600万円

➂ 現金約600万円
このうち、②の運用部分には手をつけていなかったものの、現金部分は約600万円から100万円を切るところまで減っていました。
約3年間で、スクール運営(約300万円)や赤字家計の補填(約200万円)などにより、約500万円が目減りしていた計算になります。病気や事故などいざという時に必要な現金の蓄えがこんなにも減ってしまうのは一大事です。
■3年後に妻ひとりで訪れた
そんなある日、由美子さんが一人でご来談。「今日は私一人で来ました」。そう切り出した由美子さんの表情には、これまでとは違う緊張感がありました。
「このまま夫からの生活費が入らず、貯蓄が減り続けるのは看過できません。熟年離婚を視野に入れています。離婚した場合、私の収入だけでやっていけますかね?」
思いつめた様子で淡々と語る由美子さん。
聞けば、由美子さんが本当に許せなかったのは、無収入そのものより、浩一さんの姿勢だったようです。予約の入っていない日、浩一さんは、朝はゆっくり過ごし、他の講師の研修会に出かけては、そこにもお金を使っていました。由美子さんは変わらず毎朝定時に家を出て、夜遅くに帰ってくる。

同じ夫婦なのに、片方だけが自由に時間とお金を使っているように見えたのでしょう。せめて「家に入れられなくてごめんね。その代わり、隙間の時間でアルバイトをするから」というひと言があれば、由美子さんの受け止め方もずいぶん違ったはずです。
■夫婦で「お金の話」をしてこなかったツケ
そこで私共は、ご夫妻そろっての話し合いの場を設けました。お二人から話を伺う中で見えてきたのは、浩一さんが由美子さんに、事業の資金繰りについてほとんど相談していなかったという事実です。確定申告の手伝いを通じて赤字であること自体は由美子さんも把握していたものの、お互いに切り出せないまま3年が過ぎていたのです。
改めて「このままでは、目に見えて貯蓄が減っていく一方です」と、現状をはっきりお伝えしました。
浩一さんは「(妻から)何も言われないから、やりくりできているはず。夢を応援してくれているはずだと信じて疑わなかった。まさかそこまで思いつめているなんて……」と言いつつも、表情を見ればかなり楽観的で、事態を重く見て絶望的な顔つきの妻とは正反対でした。
由美子さんは、「講師の夢を諦めてとは言わない。ただ、家に固定収入を入れてほしい」と、浩一さんに直談判。

目が覚めた浩一さんは、コンビニの夜間バイトを週3日(各4時間)始め、訪れる若い客ひとり一人に深く「ありがとうございました」と頭を下げている。その甲斐あり、少しずつ固定収入(7万2000円)を家計に入れられるようになった。
あわせて、集客目的もあった飲み代(交際費)を4万円→ゼロにし、お互いのお小遣いを1万円ずつ減らす(5万円→3万円)、定期的に通うマッサージや鍼灸代を削る(2万5000円→1万8000円)、食費を切り詰める(6万5000円→6万円)といった家計の見直しも行い、初回相談から5年経った現在は、夫婦の月の手取り32万2000円に対し、支出が22万6600円。月5万円弱だった赤字が、月9万5000円の黒字に転換でき、減った貯蓄の立て直しに充てています。
貯金額を元に戻すために、と浩一さんからは「年金の繰り上げ受給をしたほうがいいか」という相談も出ましたが、これは断固反対しました。どうあがいても生活できない状況なら、繰り上げ受空も考えられますが、今はそうではありません。目先の資金繰りのために将来の年金額を減らしてしまっては、本末転倒だからです。
現在、浩一さんは講師業も並行して続けています。人生、もう一旗上げるぞという野心を捨ててはいないのです。そうした夫の姿を見ている由美子さんは言いました。
「一度切れた糸は、もう完全には元に戻らない」
夫は退職金のほとんどを開業資金に使ってしまった。加えて3年間、収入らしい収入を稼がずに貯金500万円を溶かし、身勝手な行動をした。
由美子さんはそうした「裏切り行為」を今も許してはおらず、離婚手続きの際に使う公正証書の作成も真剣に検討しているそうです。
■独立を考えるなら「節目」を夫婦で決めておく
会社員は、雇用や給与、社会保険といった待遇面で守られているだけでなく、システムや縦横のつながりなどのバックアップ体制が整っています。すべて「持ち出し」の自営業と、労働条件は天と地ほど異なります。同じ定年後の働き方でも、100m走でいえば会社員は90mからのスタート、自営業は0mからというイメージで、走り出す条件からして違うのです。
こうした現実を踏まえない上に、パートナーである妻ときちんと話ができていない、経済的な基盤が確立できていないという状態で、希望だけで走り出してしまうケースが少なくありません。
借金をしてでもやる、という割り切りがもともと共有できていればまだしも、見通しの甘いまま始めてしまうと、貯蓄はあっという間に消えてしまいます。
大切なのは、「3年やって芽が出なければ、働き方を見直す」「売り上げがいくらに届かなければ軌道修正する」といった節目や基準を、始める前に夫婦で決めておくことです。
1年に一度は進捗を夫婦で確認し合う機会を設けるのもよいでしょう。同じ仕事を始めても、うまくいく人とそうでない人に分かれます。同じ難関の実務系の資格を持ちながら、手堅く稼げる人と、持ち腐れで全然稼げない人にはっきり分かれます。経験則で言えば、だいたい3年のうちに芽が出ない人は、その先も厳しいことが多い。
退職金や年金は、夫婦どちらか一方が勝手に使っていいものではなく、二人の老後を支える共有資産。
夢を追う自由と同じだけ、それを支える家計への責任も、夫婦で分かち合う必要があるのです。
なお、浩一さんが独立開業せず、打診された再雇用を蹴らなければ、60~65歳の間、手取りで月25万円プラス、ボーナスで年100万円を得られていたそうです。5年間で2000万円入るはずが、1円も入らないだけでなく、逆に赤字や経費ばかりを垂れ流した。そして、頼みの綱である妻の信頼も失い、今後の夫婦の関係も流動的に……。
浩一さんにとって「講師の夢」はずいぶん高くついてしまいました。

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横山 光昭(よこやま・みつあき)

家計再生コンサルタント、株式会社マイエフピー代表

お金の使い方そのものを改善する独自の家計再生プログラムで、家計の確実な再生をめざし、個別の相談・指導に高い評価を受けている。これまでの相談件数は2万6000件を突破。書籍・雑誌への執筆、講演も多数。著書は90万部を超える『はじめての人のための3000円投資生活』(アスコム)や『年収200万円からの貯金生活宣言』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)を代表作とし、著作は171冊、累計380万部となる。

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桜田 容子
ライター

明治学院大学法学部を卒業後、男性向け週刊誌、女性向け週刊誌などで取材執筆活動を続け、気付けばライター歴十数年目に突入。にもかかわらず、外見は全然ライターっぽく見られない。趣味はエアロビとロックンロールと花見など。

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(家計再生コンサルタント、株式会社マイエフピー代表 横山 光昭、ライター 桜田 容子)
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