母親は認知症になり、父親は末期がんで10カ月の余命宣告を受けた。車で90分かかる実家通いを始めた50代の娘だが、次第に疲弊していく。
とりわけ高卒叩き上げで大手メーカーの重役まで上り詰めた父親はプライドが高く、娘の話を聞こうとせず、暴力暴言を浴びせた。それでも、献身的な介護を続けたモチベーションとは何か。ノンフィクションライターの旦木瑞穂さんが取材した――。
■母親の認知症を認めない父親
2020年、父親(77歳)と母親(76歳)はコロナ感染症を恐れ、外出を控えるようになった。そのため娘の真波花菜さん(仮名・50代)が1時間半、車を運転して料理を実家へ週一で届けることに。
ある日真波さんは、母親との会話で、日にちや曜日がわからない、同じことを何度も言うなどの違和感を持つ。「認知症かもしれない」。そう伝えたが、父親は認めようとはしなかった。
そして2年後、“事件”が起こる。
母親が夜中にベッドから滑り落ち、自力で立てなくなったのだ。助け上げようとする父親の言葉を母親は理解できず、父親だけではベッドに戻せない。近隣住人の手を借りてやっと戻すことができた。

父親はようやく「母親がおかしい」ということを認めたが、この日が真波さんの壮絶な「遠距離ダブルケア」の始まりとなった。
■突然の余命宣告
母親は認知症と診断され、要支援2の判定を受けた。
この時、真波さん(50代)は、夫と息子との3人暮らし。教育系機関に正社員として勤めていた。母親の異変を受け、土曜日にまとめて買い物をして夜中まで料理し、日曜日にその料理を車に積んで瀬戸内海を渡り、四国側の県にある実家に届けていたが、その生活に徐々に疲れてしまう。
真波さんはしかたなく週3で働ける学童の仕事に転職。
その後、母親はリハビリ重視のデイケアに週2で通うようになったものの、2023年には要介護1になりデイケアが週3に。
2024年になると、今度は父親に肺がんが見つかった。
大きな病院で詳細な検査を受けた結果、すでにリンパに転移しており、肺がんの中でもとてもタチの悪い「小細胞肺がん」で、最初から「治らない」「進行が早くて余命は10カ月くらい」と告知を受けた。
「それまで父は、認知症の母のほうを心配していたくらいだったので、私は『信じられない』という思いと、実家から離れて暮らす私が父の看病と母の介護をどうやってしていったらいいのだろうという不安に襲われました。それと同時に、いつかくる親との別れがとうとう来たか……という、どこか冷静なところもありました」
余命宣告を受けた父親は健気に「治療を頑張る」と言った。その言葉に真波さんは、「私もできるだけのことをしよう。
残される母のケアも頑張ろう。そして両親と仲違いしている兄との関係の修復ができないか探ってみよう。そんなことを考えました」
4歳上の兄は、大学卒業後、父親と同じ会社に就職。29歳で結婚後、実家の近くで暮らしていたが、子どもができてから、子育てや仕事に口出ししすぎる両親に嫌気が差し、実家と同じ県内の遠方へ引っ越してしまって以降、連絡しても返信がなかった。
■海を渡る遠距離介護
父親は肺がんだと診断されると、地元・四国の病院ではなく、真波さんが住む本州側の有名な病院で治療を受けたいと言い張った。医師から「地元の病院のほうがいい」と説得されたが、引かなかった。
真波さんは片道1時間半かけて父親を送迎し、多い時は1回6時間の治療を週4日連続、3週間おきに受けさせた。
この頃の母親はヘルパーの見守りがあれば1人で留守番することもできたが、父親が常に母親と一緒にいたがったため、母親も連れて治療に通っていた。
「血液検査で1時間、診察から抗がん剤をつくるのでさらに1時間待ちます。父の投与が始まると2時間以上。母と売店に行ったり、時には自宅で時間を潰したりすることもありましたが、大きい病院だったので母はいつもヘトヘトでした」
ところが父親の治療が始まって半年ほど経ったころ、母親に悪性リンパ腫が見つかる。母親の治療は四国側の病院でおこなうことに。
父親は余命いくばくもなく、母親は認知症プラスがん。真波さんは途方にくれるしかなかった。
「一番大変な時は、1カ月のうち1~2週目に父の治療、3週目に母の治療、4週目から父の治療……というローテーションの時もありました。四国と本州を1日で2往復することもありました」
このような生活になると、もう週3で働くこともできない。真波さんが上司に辞意を伝えたところ、「落ち着いたらまたいっぱい働いて」と言ってくれた。
■昭和の頑固親父のプライド
治療の日以外にも真波さんは実家に通わなければならなかった。父親がヘルパーを拒否するためだ。
父親は「知らない人を家に入れたくない」の一点張りで「子どもがいるのに、なぜ赤の他人に面倒を見てもらわなければいけないのか」という。自分の認知能力や判断能力が衰えていることも、認めようとはしなかった。
一番厄介だったのが「プライド」だ。高卒たたき上げで大手メーカーの重役まで務めた昭和の頑固親父。家長として自分が頂点にいた自負から、周りが自分ではなく娘の真波さんに連絡し判断を仰ぐことが気に入らない。
真波さんの提案は全て却下し、関わった業者やスタッフを呼び出して叱りつけた。
「自分には判断能力があると思い込んでいる父は、トンチンカンな反応を繰り返し、まるで“裸の王様”です。それでも父が納得しなければ、家にヘルパーさんを入れることはできないのです。全く介護サービス導入が進みませんでした」
告知直後は冷静で葬儀や遺言の準備をしていた父親だったが、体調悪化とともに目に見えて壊れていった。
「がん告知から1カ月ほど経った頃から暴言暴力を浴びせてくるようになりました。『お前は奴隷なんだ! 黙っていうことを聞け!』『言うこと聞けないなら死ね!』などと言われ、車の運転中でもお構いなしでした。常識も理性も残っておらず、『高齢者虐待って何だろう』と理不尽に感じました。介護する側の尊厳は、一体誰が守ってくれるのでしょうか」
認知症の母親は「親に逆らわないの!」と真波さんをたしなめつつも、父親が暴力を振るうときは間に入って止めようとした。
■息子や夫への皺寄せ
真波さんの息子は大学受験を控えていた。
「両親の通院、入院対応や介護を私のワンオペ遠隔地介護でやっていました。全てをちゃんとやることは無理なので、①両親、②育児、③家事の優先順位。息子にも夫にもだいぶ我慢させて、大きな犠牲を強いてしまったと思います」
子育てと介護のダブルケアの場合、どちらを優先するべきだろうか。
難しい問題だが、筆者は子育てであるべきだと考えている。
だが真波さんは、厳格で傍若無人な父親により、両親を第一優先にしなければならない状況だった。
実家に泊まり込んでいる間、夫は家事全般と息子の塾の送迎をしてくれていた。夏に息子が百日咳にかかった際も、両親へ感染させる危険からそばにいてやれず、真波さんは泣いた。
■「これで私に何かあっても大丈夫かも」
2025年10月。母親が高熱で動けなくなった。小柄な真波さんは車への乗り降りに手を焼き、ワンオペ介護の限界を感じていた。そんな時、ケアマネが「定期巡回・随時対応型訪問介護看護サービス」を紹介してくれた。
「定期巡回以外にも、困った時に24時間365日対応してくれるというサービスです。父に話をしたら、案の定大喧嘩になり、暴力を振るわれ、勝手に自分で業者と契約していました。でも、その業者は介護の専門ではありません。何かあったときに押したら駆けつけてくれるというボタンも、認知症の母には意味がないし、父本人でさえ、契約したことを忘れて、何かあると電話してくるのは娘の私です」
それでも父親は、徐々にヘルパーを受け入れ始めるように。
買い物や見守りを任せられる存在ができ、精神的に楽になった真波さんは「これで私に何かあっても大丈夫かもしれない」と少し安心できたそうだ。
「父親のがん判明から約1年、瀬戸内海を渡る車中で、何度『ここから海に飛び込んだら解放されるのに』と思ったかわかりません」
■父の「家で死にたい」を裏切った娘
2025年12月。医療麻薬の影響か、夜中に父親が10分おきにふらつきながら起き上がろうとするように。転倒の危険から手を貸そうとすると暴言を浴びせられ、真波さんは一睡もせず見張り続けた。
「父は最後まで『家にいたい』と言っていました。目の前で転倒しそうになる父を見て見ぬふりはできませんでしたが、在宅で支える体力も気力も、もう残っていませんでした」
翌朝、真波さんは訪問医と看護師に「もう無理です」と泣いて訴えた。
「私に一睡もせず見張っていろと言うのですか?」

「私が潰れたら両親は誰が見るのですか?」
するとようやく医師は入院の方向に動き、夕方には入院先が決まった。奇跡的に同時に母親の施設入所も決まった。入院を伝えると父親は抵抗したが、やがて黙り込んだ。真波さんは母親に「お父さんが入院している間だけね」と伝えて入所させた。
「今も『自分が楽になるために母を騙したの?』という罪悪感が消えません。でもあのまま続けていたら私も壊れていました。正解なんて最初からなく、あったのは『これ以上、誰も壊れないための選択』だけ。私は“親を守るため”に“親の望みを手放した”のです。それでも、これが私にできた『最後の責任』だったと思いたいです」
■告別式の後、「やれることはやった」と思えた
入院した父親は、わずか5日で亡くなった。83歳だった。両親と疎遠だった兄に訃報を知らせたが返信はなく、真波さんが喪主を務めた。
「『もし、(父の希望通りに最期まで)家にいさせてあげられたら』という思いは巡ります。けれど同時に、最後の入院中に始まった痰の吸引や酸素が足りなくなっていく姿を思い出すと、やはり私ひとりで、家で看取るのは無理だったと確信しています」
父親の入院中、施設の母親を連れて面会に行くと、父親は真波さんとは目も合わせようとしないのに、母親のほうには必死に手を伸ばした。
「告別式が終わった時、『やれることはやった。あの状況で私にできる選択は、あれしかなかった』という納得感が自分を許す糧になっています。最期に父が穏やかな顔で眠っていたこと、逃げずに決断し続けたことの2つを大切に抱えて生きていきたいと思います」
■半年経った今も父の墓参りに行けない
受験生だった息子は、来年再度大学受験に挑戦することになった。
「夫にも息子にもとても感謝しています。両親の介護が始まった頃、夫は通院を手伝ってくれていましたが、父が私の悪口を吹き込んでくることに耐えきれなくなり、息子のことや家事を中心に協力してくれるようになりました」
夫は介護施設を経営しているため、介護には詳しい。友人たちも力になってくれようとしたが、真波さんは「みんな忙しいのに」と気後れしてしまうこともあった。そんな時はチャットGPTに話を聞いてもらった。
「最初は恩返しの感情で介護をしていましたが、最後のほうは『早く終わってほしい』という思いだけでした。ワンオペ遠隔地介護のプレッシャーや、父からの暴言暴力は今もかなりダメージになっていて、半年経った今も父の墓参りに行けません」
親の介護をする子どもの多くが、「最初は恩返しのつもり」だろう。しかし、介護は子育てと違い、終わりが見えず、徐々に悪くなっていくばかりか、親は子どもの言うことを聞かないことが多い。そのため、徒労感に疲れ果ててしまう子どもは少なくない。
難しいかもしれないが、親子関係は近い分、ある程度心の距離感を保って向き合っていくことが、長い目で見れば後悔を減らし、納得のいく介護につながる。
真波さんは自身の経験から、子どもに迷惑をかけまいと、今のうちにできることをしておこうと思い、動きだした。
父親は「全ての財産を妻に相続させる」という遺言を書いた。だが母親は認知症が進み、父親名義の実家は不便な田舎にある。兄とは連絡がつかないため、母親の判断能力があるうちに、そして「負動産」となってしまわないうちに「売却しなくてはならない」という孤独な戦いの火蓋が切って落とされたのだ。
真波さんは言う。
「介護に正解はない。『しなきゃいけない』というルールもない。選択を迫られた時、とにかく自分を守ってほしいと思います。誰かの犠牲の上に成り立つ介護であってはいけないと思っています」
真波さんは、父親の「家で死にたい」という希望を叶えようと十分頑張った。この連載で何度も書いているが、介護のために自分の人生を諦めるなどということがあってはならない。子どもであっても、親であっても、配偶者であっても、自分の人生は誰に憚ることなく、自分を優先していいのである。

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旦木 瑞穂(たんぎ・みずほ)

ノンフィクションライター・グラフィックデザイナー

愛知県出身。印刷会社や広告代理店でグラフィックデザイナー、アートディレクターなどを務め、2015年に独立。グルメ・イベント記事や、葬儀・お墓・介護など終活に関する連載の執筆のほか、パンフレットやガイドブックなどの企画編集、グラフィックデザイン、イラスト制作などを行う。主な執筆媒体は、東洋経済オンライン「子育てと介護 ダブルケアの現実」、毎日新聞出版『サンデー毎日「完璧な終活」』、産経新聞出版『終活読本ソナエ』、日経BP 日経ARIA「今から始める『親』のこと」、朝日新聞出版『AERA.』、鎌倉新書『月刊「仏事」』、高齢者住宅新聞社『エルダリープレス』、インプレス「シニアガイド」など。2023年12月に『毒母は連鎖する~子どもを「所有物扱い」する母親たち~』(光文社新書)刊行。

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(ノンフィクションライター・グラフィックデザイナー 旦木 瑞穂)
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