木村和司伝説~プロ第1号の本性
連載◆第21回:川勝良一評(3)

JSL(日本サッカーリーグ)の日産自動車、Jリーグ発足後の横浜マリノス(現横浜F・マリノス)で活躍し、日本代表の攻撃の柱としても輝かしい実績を残してきた木村和司氏。ここでは、そんな稀代のプレーヤーにスポットを当て、その秀逸さ、知られざる素顔に迫っていく――。

関東大学リーグ2部の明治大に所属していた木村和司 それでも「...の画像はこちら >>
 明治大1年にしてユース代表(年代別日本代表)に選ばれ、同2年になると日本代表(A代表)にも選出された木村和司だが、意外なことに、当時の明大は関東大学リーグ2部に所属していた。

 その一方、川勝良一が在籍していた法政大は、同リーグ1部所属。仲のいいふたりが身を置く環境には、決して小さくない差があった。

 今では想像しにくいが、「当時、1部は地上波のテレビで中継されてたので、そこには絶対に出たいなと思ってた」と川勝。「自分が(法大の)1年のときに(早稲田大のスター選手だった)西野(朗)さんを削りにいって、倍返しされたりとかね(苦笑)。やっぱり1部と2部では、注目度が違いました」と語る。

 しかし、だからといって、1部と2部の違いが選手それぞれの実力を反映したものであったかというと、必ずしもそうではない。

 川勝が当時の"進学事情"を明かす。

「昔はJリーグもなかったんで、高校生の9割ぐらいは(卒業後に日本リーグのチームではなく)大学に行ってたんですよ。その大学も、サッカーが強いところに行くっていう選び方もあったけど、大学を出てもその先にプロもない時代なんで、結局は大学イコール先輩というか、高校の先輩がいる大学とか、就職に有利な大学とか、サッカーで選ぶというよりは、"その他の付録"で選んでいるような時代だった。

 オレなんかも法大に行ったけど、本当はもともと(出身が)京都なので、京都産業大か、同志社大に行きたかった。でも、高校の先輩に前田(秀樹)さんとか、横谷(政樹)さんとか、日本代表に入った人がいて、そのルートが京都商業(現京都先端科学大附高)から法大だったんです」

 それは大学進学時に限った話ではなく、「先輩・後輩の流れ(で進路を決める)みたいなのは、日本リーグのチームでもあった。

こういうサッカーのスタイルが好きだから、このチームへ行くっていう、そんな時代ではなかった」のである。

「だから、(関東大学リーグ)2部だけども、コイツは1部でも全然できるっていう、個人的にうまいヤツというのは、他の2部の大学にも何人もいた。

(1部と2部で)多少注目度は違っても、和司はユース代表にもずっと常連でいたし、その後も順調にステップアップしていったから、舞台は違っても、もう個人的には認められているというか、同年代では中心みたいな存在だったよね。2部はテレビ中継なんてなかったけど、それでもやっぱり木村和司っていう名前は、もう当然、みんな知ってたと思う」

 実際、カテゴリーの違いもあって、川勝と木村が大学で対戦したことは、「たぶんない」。だが、同年代の中心にいたふたりは、ユース代表や全日本学生選抜のチームメイトとして、親交を深めていった。

「大学2年の終わりか、3年ぐらいかな、その頃にユニバーシアードがあったんで、(全日本学生選抜を)ものすごく強化してたんです。岡田(武史)さんがキャプテンで、田嶋(幸三)さんとかもいて、周りは年上が多いんだけど、それでも和司がやっぱり一番偉そうにしてて。一応、先輩には"さんづけ"するときもあったけど、時々『幸三!』とかって呼び捨てでね(笑)。でも、みんなからは人気でした」

 仲のいいふたりは、同い年ということもあってか、部屋割りで同部屋になることも多かった。

 川勝は、「あれは、ユース代表のときだったかな」と記憶を紐解き、懐かしい思い出を語る。

「当時は早朝、午前、午後、ひどいときには夜も練習があって、いつも筋肉痛でした。でも、今みたいにトレーナーが常に帯同するわけじゃないんで、和司は練習に行く直前になると、いつも部屋のなかでエアーサロンパス(鎮痛消炎スプレー)を足に吹きかけるんですよ。

だから、部屋で一緒にいるときは、エアーサロンパスの匂いしかしない(苦笑)。

 それに和司は歌が好きなんで、ベッドでいつも細川たかしとかの演歌を歌ってましたね。金田(喜稔)さんと和司は演歌が好きで、歌はうまかったですよ」

 若かりし日の記憶とともによみがえるのは、独特のメントールの匂いとこぶしの利いた歌声である。

(文中敬称略/つづく)◆川勝良一が振り返る大学時代の木村和司>>

木村和司(きむら・かずし)
1958年7月19日生まれ。広島県出身。広島工業高→明治大を経て、1981年にJSL(日本サッカーリーグ)の日産自動車(横浜F・マリノスの前身)入り。チームの主軸として数々のタイトル獲得に貢献した。その間、日本代表でも「10番」を背負って活躍。1985年のメキシコW杯予選における韓国戦で決めたFKは今なお"伝説"として語り継がれている。横浜マリノスの一員としてJリーグでもプレー。1994年シーズンをもって現役を引退した。引退後は解説者、指導者として奔走。

日本フットサル代表(2001年)、横浜F・マリノス(2010年~2011年)の指揮官も務めた。国際Aマッチ出場54試合26得点。

川勝良一(かわかつ・りょういち)
1958年4月5日生まれ。京都府出身。京都商業高(現京都先端科学大附高)を経て、法政大に入学。卓越したテクニックを誇り、大学在学時に日本代表に選出された。大学卒業後、1981年にJSLの東芝(コンサドーレ札幌の前身)入り。1983年に読売クラブに移籍。その後、京都紫光クラブ(京都サンガF.C.の前身)、東京ガス(FC東京の前身)でプレーし、1991年シーズンに現役を引退した。引退後は指導者として活躍。ヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)、ヴィッセル神戸アビスパ福岡、京都などで手腕を発揮した。国際Aマッチ出場13試合。

編集部おすすめ