野球の未来を見ていた男~近藤貞雄伝
証言者・齊藤明雄(前編)
1984年、横浜大洋(現・DeNA)は130試合を戦い、46勝77敗7分、勝率.374でセ・リーグ最下位に沈んだ。前年にチームを3位へと導いた関根潤三監督は、3年契約を終え、更新されることなく退任。
それでも、野手では高木豊が盗塁王に輝き、同じく俊足を武器とする屋鋪要も初の打率3割をマークするなど、打撃面で成長を見せた。投手では、前年に沢村賞を受賞した遠藤一彦が2年連続で最多勝に輝くなど、エースとして奮闘した。
翌年に向けて期待を抱かせる選手が育ちつつあるなか、新監督に就任したのが近藤貞雄だった。就任会見では、機動力を生かしたスピード重視の攻撃を掲げる一方、投手陣についてはこう語った。「私は投手の専門家。大洋の投手陣は弱体とは思っていない。リーグを代表する遠藤、斉藤(明夫※)がいて、金沢(次男)、関根(浩史)らの若手がいる。投手分業システムも秋季練習で各投手の能力を見て考える。私には3回1失点の投手はすばらしい戦力。野手についても、走攻守の三拍子が揃っていなくても、ひとつの部門で秀でたものがあれば起用していきます」
※斉藤明夫は当時の登録名。現在は齊藤明雄
投手出身の近藤は、コーチとしてロッテ、中日でリーグ優勝に貢献。
【自分はリリーフピッチャーなんだ】
「ええ。中日ではコーチ、監督として、そういう投手の起用法を採っていたことは知っていました。だから、近藤さんが監督として来られると聞いた時は、『ああ、分業制になるんだな』と思いました。それで秋季練習の時に、監督と話し合う機会があったんです。『先発でいくか、リリーフでいくか』という話を30分くらいしました。そこで『おまえはどうなんだ?』と聞かれて、『僕はどちらでもいきますよ』と答えました」
齊藤は花園高(京都)から大阪商業大を経て、1976年のドラフト1位で大洋に入団。1年目の1977年に8勝を挙げて新人王に輝くと、16勝をマークした1978年から3年連続で2ケタ勝利を挙げた。
先発完投型の投手として活躍していたが、1981年には救援登板が増え、5勝10セーブを記録。関根が監督に就任した翌1982年からは、抑えに専念するようになった。
「僕は『監督が言うとおりにします』とも言ったんです。そうしたら近藤さんが、『今からリリーフピッチャーをつくるのも大変だしなぁ』とポロッと言って。それで、『だったら、僕はリリーフでいいですよ』と返事をしました。その時に初めて、『自分はリリーフピッチャーなんだな』と、はっきり意識したような感じでしたね」
まだ球界で投手分業制が確立されておらず、抑えも「1イニング限定」ではなかった時代。1982年の齊藤は、当時の日本記録となる30セーブを挙げながら、134回3分の2を投げて規定投球回にも到達し、最優秀防御率のタイトルを獲得した。
ただ、この年も関根から明確に「抑え」と任命されたわけではなく、チーム事情のなかで「リリーフになってしまった」とのこと。起用について監督とじっくり話し合ったのは、近藤が初めてだった。
「ただ、その年の9月に関根さんから言われていたんです。『リリーフを3年も4年も続けていると、体もおかしくなる。来年から先発に戻れ』と。それで、『一度テスト登板をしよう』ということになって、先発としての練習や調整を始めました。
事実、近藤は「齊藤を先発に回すかもしれない」と記者に語り、齊藤のセーブ数が年々減少していることを指摘。その不振の背景には、Bクラスに慣れきった大洋に蔓延する"ぬるま湯体質"の悪影響があると見て、配置転換をほのめかしていた。
【報じられた近藤貞雄との"確執"の真相】
さらに、当時のスポーツ紙によると、「おまえは抑え投手としてはもう限界だ。だから、先発に回れ」と言ったそうなのだが......。
「いや、それは言われてないですね。新聞だったら、逆に僕が先発にこだわっている、という記事も出たはずですよ。『リリーフをやれ』と言われたけど、体がしんどいから、僕が近藤さんに逆らって『先発をやらせろ』と言った。それでもめている、という記事を読んだことがあります。でも、僕はそんなふうには言えませんから(笑)」
口髭をたくわえた強面で、硬骨漢としても知られた齊藤。それだけにスポーツ紙は、強気な近藤との衝突を期待したのかもしれない。近藤もまた、そうした報道に乗った節がある。
「近藤さんが新聞記者を面白がらせていたのかもしれません。選手の知らないところでつくられている話も多かったんじゃないですかね。ただ、近藤さんは記者を通じて、『監督がこんなことを言っていますよ』と、ワンクッション置いて何かを伝えるようなことはまったくなかったです。選手とは直接話をしてくれましたし、真摯な人だったと思います。変に回りくどいことはせず、その場で、真っすぐに直接話をしてくれる方でした」
中日監督時代の近藤は、選手と積極的に対話しなかった。選手と飲食をともにする機会もつくらなかった。選手との間に私情が生まれれば、指揮官としての判断に狂いが生じるというのが持論だったからだ。
それが、二度目の監督となった大洋では、スタンスに若干の変化があったのだろうか。齊藤によれば、飲食をともにすることはなくても、選手との対話は多かったようだ。のちに近藤自身も、秋季練習で選手たちと重ねた対話について明かしている。
「登板日がはっきりしている先発投手のほうが、体は楽だと思うんですよ。そろそろ齊藤には先発に戻ってもらいたい。去年(1985年)は先発の駒も足りなかったし、そう考えていたんですが......。でも齊藤が先発に回ると、今度は抑えがいなくなる。そこで私の考えは、齊藤に先発復帰もあるんだと思わせて、最終的には本人に抑えを選ばせるようにしたわけです」
結局は齊藤の言うとおりであり、じつは大洋投手陣が"弱体"だった事情も明かされている。また、近藤も関根と同様、長年リリーフを務めてきた齊藤の体を気遣っていた。
【近藤貞雄が掲げた"休肩日"の意外な実態】
その点、近藤はもともと過重な投げ込みを否定し、中日コーチ時代からキャンプ時の球数を制限。大洋のキャンプでは「休肝日」ならぬ「休肩日」を設けて話題になったが、実際にはどう制限されたのか。
「まったく制限はなかったです。『肩は消耗品だからね』とは言われたんですけど、僕が投げ込んでいても何も言わないし、遠藤にも『100球を超えたらやめろ』と言うようなこともない。選手にまかせっきりでした。だから、近藤さんが『ピッチャーにはあまり投げさせない』とコメントしていたので、僕としては『あれ?』という感じでしたね。
これも中日時代からのアップデートなのか、それとも"休肩日"は話題づくりだったのか。いずれにせよ、主力投手は思いどおりに投げ込み、それぞれのペースで調整していた。
オフには入念に体をケアし、しっかりと肩を休ませる。そうした自己管理を徹底し、肩やヒジの故障で離脱したことがない齊藤にすれば、球数制限など考えられなかったはず。そのあたり、近藤は「肩は消耗品」を大前提としつつ、制限するか否かは選手個々の判断に委ねていたのだろうか。
「『プロなんだから、自分でやらなきゃいけないのはわかってるだろ』という感覚だったんじゃないですかね。1日に300球投げているピッチャーがいても、何も言わなかったですし。いろいろ言っているように見えて、実際に『監督からこう言われた』という話は聞いたことがなかった。だから、僕としてはありがたかったですね」
順調にキャンプ、オープン戦を過ごした齊藤は、4月13日の巨人との開幕戦にリリーフ登板し、今季初勝利を挙げる幸先のいいスタートを切った。しかし、翌日の第2戦では1点ビハインドの8回に登板して1点を失う。さらに、シーズン3試合目の登板となった同17日の中日戦では、同点の8回に勝ち越し点を許した。試合後、近藤は記者にこう語った。
「これで3度リリーフして2度失敗した。現実に、リリーフは無理だということです」
(文中敬称略)
つづく>>
高橋安幸●文 text by Yasuyuki Takahashi










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