日本ボクシング世界王者列伝:川嶋勝重 格闘技経験ゼロから大橋...の画像はこちら >>

井上尚弥・中谷潤人へとつながる日本リングのDNAたち30:川嶋勝重

 川嶋勝重。今をときめく大橋ボクシングジムが、世に送り出した最初の世界チャンピオンである。

横浜をベースに置く大橋ジムには井上尚弥・拓真の兄弟をはじめ、さらに、五指に余る"世界チャンピオン候補"を擁する。その大半は豊かなアマチュア経験、あるいは格闘技での実績を持つ。まさにエリートボクサーの王城なのだが、川嶋は違う。すっぴんの素人からスタートし、たゆまぬ努力と、どんな苦難に苛まれても決してあきらめない熱意の果てに、ついに栄冠にたどり着き、その闘志が尽きるまで戦い続けた。(文中敬称略)

過去の連載リスト〉〉〉

【チャンピオンメーカーのジムが生んだ初めての王者】

 2004年の7月末、大橋ジム会長の大橋秀行を取材した時のことを思い出す。幸せにとろけたような満面の笑みを浮かべて、こう切り出した。

「今ね。何をやっていても、すごく楽しいんだよね。自分の(世界チャンピオンになった)時ももちろんうれしかったけど、世界チャンピオンを育てるって、こんなに幸せなんだなって。ウィスキーのCMじゃないけれど、琥珀色の時間がもう1カ月、ずっと続いているんだもの」

 トレーナーが選手の個性を見極め、特性を引き出し、さらにその強みを色づけしていく。プロモーターである大橋は、きちんと現状の力を把握してから、なお、ボクサーたちが育っていく最善の過程を提供し、勝負の時を創り出す。その最初の成功体験、初めての日本チャンピオン、さらに世界チャンピオンが川嶋だった。自らへの喝采はなおさら深く、遠くまで響きわたっていたのだろう。

 大橋ジム開設2年目の1995年、21歳でジムの門をたたいた川嶋は、まったくのボクシング未経験者であり、技術のイロハから教え込まれた。

格別な素材でもなかった。当人のプロテスト志願も「時期尚早」と2度もダメ出しを食らっている。ただその間、基礎はしっかりと築かれてきた。

 井上尚弥を日本人未到の境地に導き、今も天空高く走らせるこのジムは、今後10年以上の先まで豊かな展望が見通せるタレントたちが集積している。だからこそ、初めての世界チャンピオンが"たたき上げ"だったことが、なおさらに意味深い。

【長い下積みの末、世界初挑戦は黒星】

 川嶋はボクシングとは縁の乏しい少年期を送った。世界タイトルマッチをテレビで観ていくらかの興味はあったとしても、決して身近な存在ではなかった。

中学、高校時代は野球に熱中した。上手なプレーヤーではなかったが、懸命に練習を重ねて、レギュラーの座をつかみ取ったことが密かな自信にもなったという。学校を出ると大手家電メーカーに就職し、ごくふつうの勤め人としての日々を送っていた。

 人生の転機は二十歳の頃合い。プロボクサーになった友人の応援に試合会場に行った。

世界タイトルマッチの前座だった。「こんな世界があるのか」と思った。煌(きら)びやかなライトに照らされて戦う友人がうらやましくなった。ちょうど会社からは地方への転勤が打診されていた。

 川嶋は腹を決めた。新しい夢を持ち、どこまでも追いかけてみよう。

 1995年、大橋ジムに入門する。ジャブ、ワンツー、フットワーク、ブロックと基本の1から10まで学ぶ期間は2年にも及んだ。ようやくプロデビューしてからも長い下積みは続いた。5連勝で東日本新人王トーナメントで優勝したものの、全日本決勝ではのちの東洋太平洋チャンピオンに初黒星を喫した。その後に12の白星を連ね、初のタイトルマッチ(東洋太平洋バンタム級)にたどり着くも大差判定で屈した。

 だが、川嶋はそんな悔しい敗北も肥やしにして、ジリジリと成長していく。

時に単調になるところはあっても、常に積極果敢、右ストレート、フック、さらに左フックに一発KOの威力を秘めるボクサーパンチャーとして、ファンからも一目置かれる存在になっていく。2002年4月には乱戦に持ち味を発揮する佐々木真吾(木更津グリーベイ)に打ち勝ち、初のタイトル(日本スーパーフライ級)を手にし、リング上で涙した。

 2003年6月23日、大きなチャンスが訪れる。横浜アリーナで徳山昌守(金沢)の持つWBC世界スーパーフライ級王座に挑んだ。川島の攻撃力に期待がかかったカードだが、トリッキー、大胆に見えて堅調な徳山の技術にコントロールされ、しぶとく食い下がるまでがやっとだった。0−3の判定で敗れた。

【技巧の名手、徳山を107秒でTKO】

 それから1年後(2004年6月28日)、川嶋に再びチャンスが巡ってくる。徳山との再戦だった。場所も同じ横浜アリーナだ。4年間もチャンピオンの座にある徳山にとっては9度目の防衛戦になる。その安定感に陰りは見えない。前戦を見る限り、長い間合いからタイムリーショットを重ねるチャンピオンの戦法に対し、攻撃重視のチャレンジャーのスタイルは相性がいいと言いきれない。再び苦戦の予感しかなかった。

しかし、川嶋はそんな外野の予想を吹き飛ばす。

 開始ゴングから1分半。徳山の長いジャブに切れ味が帯びる前、一瞬の隙をついて川嶋の右ストレートがカウンターとなる。顔面からキャンバスに滑り落ちるようにダウンした徳山のダメージは明らかだった。立ち上がったが、膝から下は震えたまま。川嶋はすかさず追撃に入る。

 終幕はそれから10秒とたたないうちに訪れる。左フックから切り返した右が決め手になった。背中からフロアにたたきつけられた徳山を見て、レフェリーは即座に試合を止めた。1回1分47秒TKO。世界一を夢見てから9年目、川嶋の願いはようやく叶った。そして、大橋ジムにとっても創設10年目の快挙だった。

 川嶋は2度の防衛を果たす。2度目の防衛戦ではシドニー五輪ベスト8の技巧派サウスポー、ホセ・ナバロ(アメリカ)と激しい打ち合いを演じ、左目上から激しく出血しながら2−1判定を勝ち取っている。

 川嶋に立ちはだかったのは、またしても徳山だった。2005年7月18日、大阪市中央体育館での3度目の対決は、前チャンピオンの伸びやかなパンチ、きめの細かい攻防が上回り、はっきりとした内容の0−3判定でチャンピオンベルトを失った。

 その後の川嶋は厳しいキャリア後半戦となる。2006年秋、チャンピオンの徳山が試合から遠ざかったことで作られたWBC暫定王座の決定戦で、メキシコの長身サウスポー、クリスティアン・ミハレス(メキシコ)から痛烈なダウンを奪いながら詰めきれず、3ジャッジのいずれもが1ポイント差の1−2判定負け。3カ月後の再戦では10ラウンド、右フックで倒されてしまう。レフェリーの判断はスリップダウンだったものの、ダメージは深く、ミハレスの猛攻に遭ってTKOに屈する。

 2008年1月14日、さらに王座復帰をかけてWBAチャンピオン、アレクサンデル・ムニョス(ベネズエラ)に挑んだものの、攻めきれないまま判定で退き、引退を決意した。

【プロボクサーを夢見た少年の思い出が映画に】

 引退後はアクセサリー店を経営する妻の手ほどきを受け、宝飾デザイナーに転じた。ボクシングでは、時折、放送解説で見かけるくらいになったが、今年(2026年)、川嶋の名前がボクサーとして久しぶりにクローズアップされた。

 2000年春、地下鉄日比谷線の脱線事故で4人が死亡、そのうちのひとりが大橋ジムに通っていた高校生だった。

東京大学進学を目指し、都内の進学校に通いながら、やがてプロボクサーとしてリングに立ちたいとジムに通っていた。ジムでは仲間の若い死を心から憂いた。会長室の応接テーブルの上には、ジムから生まれたどの世界チャンピオンでもなく、それからずっとその少年、富久信介(享年17)と愛犬が寄りそう写真が飾られる。折々にアドバイスを求められたという川嶋は、やがて富久の頭文字を縫い込んだトランクスを履いて世界戦のリングに立つ----。

 それから20年、大橋ジム宛にメールが届く。富久といつも同じ車両に乗っていたという女性からだ。そこには、当時の互いの触れ合いとささやかな恋心を綴られていた。そのことが、せつなくもロマンチックな新聞記事になり、さらに映画となって、この春に公開された(『人はなぜラブレターを書くのか』)。川嶋の役は菅田将暉が演じた。

 プロボクシングは過酷なスポーツである。たったひとつの栄光を求めて、時に酷薄とさえ思われる野心がぶつかり合う。ジムの中もまた同じ。だが、ここでは志を同じくする者同士の絆もまた生まれる。そして、時に、こんな青春のひとひらも舞う。とても素敵な話だと思う。

●Profile
かわしま・かつしげ/1974年10月6日生まれ、千葉県市原市出身。21歳でプロボクサーを目指して大橋ジムに入門。昼間は酒屋に勤めながらトレーニングを続け、次第に力をつけていった。2002年に日本スーパーフライ級タイトル獲得。そのキャリアを大きく彩ったのは徳山昌守(金沢)とWBC世界スーパーフライ級タイトルを争った3戦。1勝2敗に終わったが、2004年のその1勝はセンセーショナルな初回TKO勝ちで、見事に世界一に輝いた。2008年、8度目となる世界タイトルマッチで敗れて引退。好戦的なボクサーパンチャーとして、多くのファンの記憶に残る。生涯、スーパーフライ級のベストウェートを守ったストイックなボクサーでもあった。身長164cm。39戦32勝(21KO)7敗。

宮崎正博●文 text by Masahiro Miyazaki

編集部おすすめ