出産の保険適用で「給付水準75万円」医会が要求…現行“50万”で産院4割超が赤字、すでに市町村の6割が“産科ゼロ”の現実
分娩費用の保険適用化を巡り、8月19日に都内で開かれた記者懇談会で、日本産婦人科医会(石渡勇会長)が、標準的な分娩の給付水準を75万円とするよう厚生労働省に求めていることを明らかにした。
現在の出産育児一時金は50万円で、同医会が求める75万円はその1.5倍にあたる。
昨年の出生数約67万人を基に単純計算すると、50万円なら約3350億円であるのに対し、75万円では約5025億円となり、約1700億円の追加財源が必要になる。
政府の予算編成にも大きくかかわる金額であり、高市首相の政治決断が求められる可能性もある。(ライター・松田隆)

全国一律の「価格」が産院の命運左右

現在は、出産した女性に原則50万円の出産育児一時金が支給され、妊産婦はそれを分娩費用に充てる形で医療機関に支払っている。
正常分娩は原則として公的医療保険が適用されない自由診療であるため、それぞれの医療機関が人件費や地域の物価、設備、提供するサービスなどを考慮して価格を設定している。
5月29日に成立した健康保険法等の改正法が施行され、新たな給付制度が始まると、この仕組みは大きく変わる(※)。
※改正法は2028年6月4日までに施行される予定
新制度では、標準的な分娩については全国一律の基本単価を設定し、保険者から分娩施設に直接支給する現物給付が制度の柱となる。妊婦への現金給付なども組み合わせ、標準的な出産に伴う妊産婦の自己負担をなくすことが目指されている。
妊産婦にとってみれば負担軽減につながるが、医療機関側にとっては標準的な分娩について必要な経費に応じて自由に価格を決めることができなくなり、国が設定する全国一律の基本単価を中心に収入が決まることになるという意味で収益構造が大きく変化する。
仮に給付水準が低く設定されれば、24時間の分娩体制を維持するために必要な人件費や設備費を賄えない施設が出てくる可能性はある。
特に影響が大きいとみられるのが、診療所など、地域の分娩を担ってきた一次施設である。
新制度で設定される標準的な分娩の給付水準は、こうした小規模な産院が今後も経営を続けられるか、それとも分娩から撤退し、最悪の場合には閉院に追い込まれるかを左右する。
「標準的な分娩はいくら必要なのか」という議論は、単なる料金設定の問題にとどまらず、地域の周産期医療を支えている一次施設の命運を決する問題である。

経営継続に75万円

日本産婦人科医会では「分娩取扱継続に必要な出産費用調査」を実施、全国の有床診療所923施設、私的病院(産科単科ないしこれに準ずる施設)122施設のうち、654施設から回答を得た。
その結果、正常分娩を今後も継続するために各施設が必要と考える出産費用は、個室料やアメニティーなどのオプションを含まない場合、全国平均72万6000円となった。
個室料などを含めれば平均82万6000円である。
さらに、医師や助産師などの人件費、緊急対応費用、直接経費、間接経費などを積み上げ、2028年の標準的な出産原価を推計すると71万6881円となった。これに利益率3%を加えた価格は73万8388円となる。
そうした結果を基に、医会が厚労省に示したのが「75万円」という数字である。現行の出産育児一時金50万円の1.5倍である。
調査では、回答施設のうち大幅な赤字が22%、小幅な赤字が19%で、合わせて4割を超える施設がすでに赤字となっている。今後設定される給付水準によっては、分娩からの撤退や閉院に追い込まれる施設が増える可能性がある。
石渡会長はそうした事情を踏まえ、懇談会後の取材に対し「こちらとしては譲れません」と強調した。
もっとも、厚労省が公表する正常分娩の平均的な費用は50万円台で推移しており、「なぜ75万円も必要なのか」との疑問を投げかけられる可能性はある。
この点について、常務理事の福嶋恒太郎氏は以下のように説明する。
「国のデータは全施設の分娩ですし、あとは自治体立の施設は補助金が入ることもあり、結局いくら赤字になってもよいという事情があります。また、『病院としては上げたくても、議会(での値上げ案)が通らないから安い値段でやらざるを得ない』というところも含めた数字が、50万円です。
一次施設はほとんど補助金がありませんから、かなり違いは大きいと思います」
実際、現行制度下で調査に回答した施設の4割以上が赤字となっており、50万円の出産育児一時金をベースとした制度ではこの先、多くの施設が立ちいかなくなる可能性が考えられる。
さらに、現在請求されている分娩価格と、将来にわたって施設が経営を続けるために必要な費用は同じではない点も考えるべきであろう。
分娩は、患者が来た時だけ医師や看護師を配置すればいいというものではない。出産はいつ始まるか分からない。夜間でも休日でも対応できるよう、医師や助産師を24時間確保しなければならない。
年間600件の分娩が300件に減ったからといって、当直の医師や助産師を半分にできない。分娩件数が減れば減るほど、1件当たりの固定費負担は大きくなる。
これに加えて、地方では少子化による分娩数の減少が経営を圧迫する一方、東京などの都市部では高い人件費や土地代、賃料が重くのしかかるという現実も無視できない。
こうした多くの要素を含めて弾き出した金額が「75万円」ということである。
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調査結果を発表する福嶋恒太郎常務理事(撮影・松田隆)

消える「身近で産める場所」

すでに、分娩施設は急速に減少している。
2006年から2025年までに分娩を扱う診療所は1818施設から951施設へとほぼ半減し、一般病院も1003施設から499施設と半分以下になっている(日本産婦人科医会施設情報調査2025)。
全国約1700市町村のうち1041市町村、約6割には産科施設が存在しない。さらに一次施設が撤退すれば、直接影響を受けるのは妊産婦である。

自宅近くに分娩できる施設がなくなれば、妊婦は遠く離れた病院や診療所まで通院し、出産の際にも長い距離を移動しなければならなくなる。
海外では、産科施設までの移動時間や距離が長くなることと、院外出産や新生児集中治療室(NICU)への入院などの周産期リスクとの関連を示した報告もある。
たとえば、カナダの35歳以上の妊婦を対象とした研究では、地方居住者は都市居住者に比べ、死産が1.51倍、周産期死亡が1.47倍で、さらに病院までの距離が「50km未満」「50~150km」「150km超」と1段階遠くなるごとに、周産期死亡のリスクが1.53倍になると報告されている(Journal of Rural Health 2011;27:211-219)。
また、別のカナダの研究では、病院までの移動時間が1~2時間の場合、予定外の院外出生が6.41倍、NICU(新生児集中治療室)レベル2への入院が2.20倍になると報告されている(BMC Health Services Research 2011;11:147)。
日本は長年、世界でも最高水準の安全性を持つ周産期医療体制を築いてきた。
それを支えてきたのは、地域で日常的な妊婦健診と正常分娩を引き受け、異常があれば高次医療機関につなぐ一次施設の存在である。その体制を維持することは、単なる産科医療機関の経営支援にとどまらず、妊産婦と新生児の生命を守ることにつながる。
こうした現実を踏まえ、濱口欣也副会長は、新制度を「とりあえず始めてみる」という発想を強く戒める。
「分娩は母子の生命と健康を支える医療であり、その基盤となる制度改正は試行的な取り組みとして進めるべきものではありません。また、制度設計の不備によって地域の分娩体制に支障をきたすような事態は、決して許されません。
仮に制度変更によって地域の周産期医療提供体制に影響が生じれば、結果として、妊婦が安心して出産できる環境そのものが損なわれる可能性があります。
このような事態を回避するためにも、妊婦にとっても分娩施設にとっても、新たな制度が安心安全な出産につながるものであると実感できる内容とすることが重要です」
この主張の背景には、いったん産院が閉院すれば、後から給付水準を引き上げても簡単には復活できない、という考えがある。
濱口副会長は、地域の分娩体制について、強い危機感を示している。
出産の保険適用で「給付水準75万円」医会が要求…現行“50万”で産院4割超が赤字、すでに市町村の6割が“産科ゼロ”の現実

制度改正は試行的な取組みとして進めるべきではないとする濱口欣也副会長(撮影・松田隆)

75万円なら1700億円追加

問題は財源である。
複数の情報を総合すると、厚労省が新制度で念頭に置いている予算規模は約3500億円とみられる。これは昨年の出生数を約67万人として計算し、1件50万円なら3350億円となるため、概ね現在の出産育児一時金をベースにした財政規模と考えることができる。
医会の要求通り75万円とすれば5025億円になり、差額は1675億円生じる。年間で1700億円近い財源を新たに積み増さなければならない。診療報酬の1項目を若干引き上げるという規模ではない。政府全体の予算編成に影響する金額であり、厚労省だけで簡単に決められる問題ではない。
しかも、75万円を一度設定すれば終わりという話でもない。人件費や物価が上昇すれば、それに応じて給付水準を見直す必要がある。石渡会長は、物価などに応じて金額を見直す、いわばスライド制のような柔軟な仕組みも必要との認識を示している。
この問題については、日本産婦人科医会とは別に、日本医師会も高市早苗首相に直接、産科医療が置かれた厳しい状況を伝えているという。
具体的には、日本医師会の幹部によると、正常分娩の多くを担う一次施設が赤字経営に苦しんでいることや、給付水準を低く設定したまま保険適用化を進めれば撤退する施設が続出し、地域の周産期医療提供体制そのものが崩壊しかねないことについて、首相に説明したという。

同幹部によれば、高市首相もそうした状況については理解している様子であるという。
そうなると、最後は高市政権の政治決断となる可能性がある。
厚労省が制度を設計し、財務省が財源を査定する通常の行政過程の中で、3500億円程度とみられる財政規模を5000億円規模へ一気に拡大することは容易ではない。
1700億円近い追加財源を認めるかどうかは、厚労省の枠を超えた総理の政治決断に委ねられる可能性はある。
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日本産婦人科医会・石渡勇会長(撮影・松田隆)

税収は2年間で12兆円増

1700億円という追加財源は小さくない。一方で、国の税収はここ数年、大幅に増加している。
財務省によると、一般会計税収の決算額は2023年度が72兆761億円、2024年度が75兆2321億円、2025年度は84兆2226億円となった。2年間では実に12兆1465億円の増収である。75万円を実現するために必要な追加財源1675億円は、この2年間の税収増12兆円余りの約1.4%に相当する。
これだけ税収が増えている状況では、1700億円の追加財源を確保できるかどうかに加え、政府がどの政策を優先するかも問われることになる。
妊産婦の自己負担をなくす一方、そのための給付水準を低く抑えた結果、各地の分娩施設が消えてしまっては本末転倒である。世界でも最高水準にある日本の周産期医療体制を維持するため、約1700億円を追加するのか、最後は高市首相の政治判断が求められる可能性がある。

新制度の具体的な設計は、これから本格化する。
今年の秋以降、厚労省で「出産の新たな給付に関する検討会」で具体的な制度設計を議論し、社会保障審議会医療保険部会で新たな給付の総額が審議されると考えられる。
さらに中央社会保険医療協議会(中医協)では、新たな給付の1分娩当たりの費用や施設基準が審議される可能性があるとされている。
◾️松田隆
埼玉県生まれ。青山学院大学大学院法務研究科卒業。日刊スポーツ新聞社に約30年在職し、退職後にフリーランスとして活動を始める。2017年に自サイト「令和電子瓦版」を開設した。現在は生殖補助医療を中心とした生命倫理と法の周辺、メディアのあり方、冤罪(えんざい)と思われる事件の解明などに力を入れて取材、出稿を続けている。


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