〈「地上の楽園」の現実〉北朝鮮へ渡った9万3000人の在日朝鮮人…脱北者50人が語った「幸せな瞬間は一時もなかった」
〈「地上の楽園」の現実〉北朝鮮へ渡った9万3000人の在日朝鮮人…脱北者50人が語った「幸せな瞬間は一時もなかった」

――「証言・北朝鮮帰国者 祖国に帰った『在日』はどう生きたか」。日朝両国の赤十字と政府、朝鮮総連、などが推進し、1959年から25年間にわたって行われた在日朝鮮人の北朝鮮への帰国事業。

“地上の楽園”と喧伝されて約9万3000人が夢を抱いて海を越えたが、“祖国”での暮らしはどういうものであったのか。北朝鮮へ渡り、さらにそこから脱北した50名の帰国者の人々にインタビューを敢行し、そこでの労働、教育、監視、密告など、生身の生活をあぶりだした本書は刊行後にすぐに重版がかかり、今は三刷ということで、大きな話題を呼んでいる。

 

今、あらためて在日の北朝鮮帰国とは何であったのかを問う。本書における取材、執筆、構成を担った石丸次郎氏と父が朝鮮総連の幹部で3人の兄が帰国されたヤンヨンヒ監督の対談をお届けする。

「北朝鮮では幸せな瞬間は一時もなかった」

――まずはヤン監督に伺います。一読されて、どのようにご感想を持たれましたか?

ヤン 一気に読みました。まず構成が素晴らしく、在日朝鮮人や朝鮮の歴史についての知識がない人でも、スラスラと読めると思います。

そして何よりも、インタビューをされた書き手の石丸さんが、初めて中朝国境に取材に行かれた日からこの本の執筆に至るまでの人生があるからこそ、インタビュイーたちは壮絶な人生を赤裸々に語れたのだと思います。800人以上の脱北者を取材した石丸次郎に対する信頼と関係性が感じられて胸が熱くなりました。

帰国運動については、本にはできないエピソードもあったと思います。私にもあります。映画でも本でも、この対談の場でも語れないこともあります。

そのギリギリのラインを、石丸さんはじめ、携わった「『北朝鮮帰国者』の記憶を記録する会」の方々で掘り起こしてひとつの形にしたというのは、人権意識とフェアネス、生き延びてきた方々への敬意と愛情の塊です。

安っぽい同情ではここまでの作品にはならないと思います。

石丸 本に書き入れたかったことは山ほどあります。帰国者たちがどういう精神で生きてきたのかをもっと書きたかった。インタビューしたそれぞれの人が印象に残っているのですが、最も言葉が心に残っているのはキム・ギュソクさん。

1938年仙台のお生まれで、革命家として生きようと北朝鮮に行った方です。北朝鮮の現実に幻滅しながらも製鋼所の溶解工に志願します。北朝鮮の民衆と共に在りたいと、重労働の最前線に立つという思いからでした。

北朝鮮に行ったら、社会主義を勉強しようと、日本から山のように本をもっていくわけですが、全部取り上げられてしまいます。トルストイの「戦争と平和」を読めたのは、脱北して韓国に入ってからのことで、「感激で胸が一杯になった」と語っています。

北朝鮮が90年代の飢饉の時代に入ると、日本からの仕送りがあって少し余裕があったキムさんのもとに、周囲の飢える帰国者から「一食だけでも食べさせてくれ」と懇願されるようになる。

しかし、施すと自分自身のお金がなくなる。家族を養うために、食べ物を乞う友人を遠さげ、言葉に耳を塞がなければならなかった。

その時、自分が目指していたヒューマニズムや共産主義は一体なんだったのかと、すごく苦しんだと正直に吐露されました。極限に直面した時の帰国者の精神の一端を知りました。

インタビューではほぼ全員に、「北朝鮮にいる間、それでも幸せな瞬間があったのでは?」と尋ねました。多くの人が、「一時もなかった」と答えました。艱難辛苦の連続だったこと伝えるための修辞なのかもしれないので、そのまま受け取っていいのか分かりません。

「気の置けない帰国者の友人同士で集まって食べたり遊んだりした時が楽しかった」と答えが多かったのも印象的でした。というのは、安寧を感じた瞬間が「北朝鮮の中の日本」だったからです。

質問を変え、それでも子育ては楽しかったのでは? と訊くと、暮らしに余裕のあった人の中には「子供の成長が楽しみだった」という答えがあった一方、苦しい暮らしが続いた女性たちからは「産んだ瞬間から生活に追われて楽しかった記憶がない」という答えが多かった。

70年代に東京から帰国した女性の「日本で子育てをしていたらもっと楽しかったはずだ」という答えが印象に残っています。

北朝鮮に帰国して良かったという人もいたのでは? という質問もしました。裕福だった人も含め「一人もいないと思う」という答えがほぼすべてでした。自分の人生を切り拓く自己決定ができればまだしも、帰国者は全体主義国家に閉じ込められ、労働党と指導者に絶対忠誠と絶対服従を強いられる暮らしがずっと続いたわけです。

その重たさ、しんどさを読者に理解してほしいと思いました。

数億円の寄付で金日成と写真が撮れる

ヤン うちは、兄が3人北朝鮮に帰国しました。現在はできなくなっていますが、2015年頃まで母が平壌に仕送りをしていたので、兄たちは、ある程度恵まれた生活をしていました。

しかし90年以降、朝鮮が経済的に破綻し、地獄のような時代に入ると、身内が朝鮮総連の幹部であることの意味がなくなっていきました。昔は、1億円寄付すると金日成と一緒に複数人で写真を撮れて、3億円、5億円になるとツーショットが撮れると言われたそうです。

金正日の時代はどうだったのかは分かりませんが、部屋に飾る金日成との写真が100人と一緒なのか、片手で数えられる人数なのかで、その人に対する認識が変わってくるような時代です。

兄たちも慈江道や両江道に行ったことがあるそうですが、平壌よりも悲惨な現状を目の当たりにし、気の毒に思って衣類などを渡してきたそうです。

私は高校のときに初めて訪朝し、兄たちと11年ぶりに再会しました。その時に平壌で与えられた面会時間が短すぎたのですが、大学のときの訪朝で初めていろんな話をしました。

兄たちが何を食べて、何を聞いて、何ができて、何ができないのかが知りたかったんです。その中で私が強烈に覚えている兄の言葉があります。

「ヨンヒも祖国に忠誠を誓えというような民族教育を受けてきただろうけど、決して感情的、感傷的になるな。何を見ろとか、どう考えろとかは言わない。

それは自分で判断すればいい。見栄えの良いところにしか連れて行かれないだろうけど、その中でもなんとか現実を見る努力をして欲しい」

要するに国家による感傷的なフレーズやプロパガンダにに流されるなと言われました。兄たちがそう言ってくれたのがすごく嬉しくて、「望むところや」という心境になりました。だからあの巨大なマスゲームを見ても、マスゲームを終えてスタジアムを退場し、疲れ果てた様子の出演者の方々に目がいったりしました。

訪問の回数を重ねるうちに、家族や親せきだけではなく、彼らの友人や同僚、同じアパートの住民とも徐々に話すようになりました。毎日のようにタクシーに乗って、外貨食堂や外貨銭湯、ボーリング場に行ったりするものだから、姪や甥たちにとって私の祖国訪問期間はお祭りなんです。

アパートのご近所さんも、そういう私たちのことを見ている訳です。嫌な言い方ですが、妬まれないように事前に贈答品を渡すんです。食料品やお酒、タバコ、衣類などでしょうか。

母が、長兄が入院していた平壌の病院の医者や看護師に至るまで、医学書や靴など、たくさんのお土産を贈っていたように、私もアパートの人たちに物をたくさん贈りました。

毎晩30~50人の飢民が中国に越境

――石丸さんに伺います。この取材を始めたきっかけ、そしてその変遷について教えてもらえますか。

石丸 北朝鮮取材を始めたのは93年の7月。

朝中国境全域を、鴨緑江を遡って白頭山の頂まで行き、豆満江に沿って最下流まで下る取材をしました。

何もかも新鮮で楽しい取材だった一方で、少数ながら北朝鮮の人と会って厳しい現実を聞かされて大きなショックを受けました。僕自身はもちろん、記者も研究者も北朝鮮という国が一体どうなっているのかほとんど分かっていないということに気付かされました。

朝中国境にはかれこれ100回程行きました。どっぷりはまる転機となったのは97年夏の取材です。

凄まじい数の飢民が、中国に越境して来ました。豆満江沿いにある人口1000人くらいの朝鮮族の村々に、毎晩30~50人が押し寄せてきていて、片っ端から彼らにインタビューしましたが、一体なぜこれ程までに飢えているのか、統制の厳しい北朝鮮から夥しい人が越境するなんて、社会統制はどうなっているのか…。すべてが衝撃でした。

彼らの中に日本からの帰国者に言及する人たちがいました。日本から仕送りのない帰国者は悲惨で、「コジポ(乞食の在日僑胞の意)」と呼ばれており、餓死する人もいると。いつか越境者の群れの中にいる帰国者に出会うだろうと予測しましたが、案の定、98年に会うことになります。

福岡出身の帰国者の娘で、日本にいる親族と連絡を付けるために中国に越境してきていました。

彼女から、別れ際に「アボジ(父親)とオモニ(母親)を連れて中国に来るから、なんとか日本に連れて行って欲しい」と懇願され、たじろぎました。脱北した帰国者を取材するということは、自分ものっぴきならない立場に立たされるということを想像しました。

99年から、脱北帰国者と直接接する機会が増えました。初めてじっくり付き合ったのは福岡出身の妻と岡山出身の夫と2人の娘の家族でした。寄る辺がない人たちなので僕の延吉の取材拠点のアパートに入ってもらい、寝食を共にしながら、北朝鮮での暮らしについて長期間話を聞きました。

在日が北朝鮮でどんな暮らしをし、どういう思いで過ごしてきたのか、初めて知ることばかりで、北朝鮮に渡った人たちの人生に、さしたる関心を向けて来なかったことに恥じ入りました。学生時代から、端っこの方でですが、韓国の民主化や在日の人権問題について関わって来たのですが、帰国者については、目を逸らしてきことを突きつけられたからです。

朝鮮総連が握りつぶした内部告発

――それまでは北朝鮮や帰国事業について、どういったイメージを持たれていたのでしょうか。

石丸 私の両親は大分から大阪に来て長くニュータウンの団地暮らしをしました。被差別部落や在日朝鮮人の人権問題については授業や本を通して知った程度です。

高校3年生のときに起こった光州事件に衝撃を受け、大学に入ってから朝鮮半島問題に関わるようになりました。ですから、在日の北朝鮮帰国については、80年代初めになって、つまり事業が終わる頃に初めて聞いたというレベルです。

20代前半、在日、日本人の活動家の先輩の中に、帰国事業について語る人はほとんどいませんでした。稀にあっても、差別と貧困に喘ぐ朝鮮人が祖国に帰った人道的な事業だったという通り一遍の説明でした。

80年代半ば頃から帰国事業についての告発本が出始めます。多くは北朝鮮に肉親のいる在日の書いたもので、地上の楽園どころか、経済はガタガタでとんでもない監視統制社会だという内容でしたが、韓国は当時、全斗煥軍事独裁政権時代でしたので、韓国、民団の謀略情報の類で割り引いて見るべきだと高をくくっていました。

そのような告発本、暴露本が増えていく中で、東西冷戦が崩壊します。僕はちょうど韓国に語学留学中だったのですが、北朝鮮も相当悪いらしいし、内部は動揺しており潰れるんじゃないかという分析が出てきます。

そして90年代に入ると帰国者の在日家族からの告発が始まりました。肉親が政治犯として捕らえられて行方が分からない、処刑されたなどの衝撃的な内容で、革新系の日本市民が支援を始めましたが、朝鮮総連が組織動員して集会に押しかけて妨害するということが繰り返されました。

組織を挙げて帰国事業を「慶事」としてきた総連としては、内部告発を何としても握りつぶしたいと考えたのでしょう。

このような時代と社会の変化を受けて、僕自身の北朝鮮や帰国事業に対する認識は徐々に変化していきましたが、民主化された韓国社会にはまだ反北、反共主義の残滓はたっぷり残っているし、日本の右派の北朝鮮バッシングも根強く、逡巡が続き、それなら直接北朝鮮の人と交わってみようと思い立ち、朝中国境通いを始めたわけです。

99年から中国に脱出してきた帰国者10数人に会って、何らかの形にまとめて世に出さないといけないと考えるようになりました。2000年代をピークに、韓国や日本に入ってくる脱北帰国者がさらに増加したので、いつかしっかりした記録集を作ろうと思い始めました。

ただ、僕自身も北朝鮮での帰国者の生き様あるいは死に様については分からないことだらけです。インタビューした帰国者の話しは個人の特殊な体験かもしれないし、中には過剰な表現をする人がいるかもしれない。発言を検討せずにそのまま載せるのは正確性に欠ける。

それである程度のボリュームが必要だと考えました。しっかりと歴史に刻むためには、フェアなものにしないと評価されない。脱北帰国者は皆さんお年で、亡くなる人も出始めた。早くやらないとまずい。でも僕にはお金もないし、日韓で一人で取材するのは時間がかかりすぎる。

それで周りの在日と日本人の有志に呼びかけてインタビューの一部を担当してもらうという流れを目指すことにしました。

映像ではなく本を執筆した理由

――ヤン監督も絶賛した構成とフェアネスな書き方についてですが、インタビュアーとして言葉を引き出す上で、その言葉の吟味、構成について意識されたことはありますか?

石丸 僕は映像取材が長く、帰国者をテーマにドキュメンタリー番組やテレビのニュース特集を何本も作ってきました。

ただ、テレビではどうしても、撮影が可能な限られた人たちの体験と、写真や手紙などの資料が中心になります。ヒューマンドキュメンタリーも制作しましたが、帰国者が北朝鮮でどう生きてきたのかという、帰国事業研究と報道で一番欠落した部分を埋めるためには、映像ではなく本しかないだろうと考えました。

在日の16%が帰国した大事業なのに、北朝鮮でどう生きたのかという肝心の部分が空白になっている。17年から50人をインタビューするプロジェクトの構想を立てて18年からインタビューを始めました。

本の構成は最初から時代順に書かないと絶対ダメと決めていました。50人の証言を人別に並記しても理解が深まらないからです。

北朝鮮も変化する社会だし、帰国者も右往左往しながらも定着していったはずです。学校に通い、職に就き、子どもを産み育てるという年齢を重ねるごとの暮らしが当たり前にあったはずです。

なぜ帰国に至ったのかという経緯から始め、清津に着いた時、金日成の個人独裁化が深まるに連れて、どういう社会変化があったのか。そして脱北に至るまでの経緯を、時間の流れの中で編み上げていくと決めていました。

――私も関わった書籍『在日一世・二世の記憶』シリーズでの反省として、まさにそれが欠落していました。とにかくまずは量を聞こうということで時間の流れを意識しなかった。

石丸 まさにあの本が参考になりました。貴重な証言を記録したとても重要な労作に違いありません。ただ、脱北帰国者の場合は聞き取り可能な分母の数が圧倒的に少ない上、北朝鮮という死角だらけで情報の限られた社会の生活史を綴ろうということですから、人別の証言集は不向きだと考えました。

――量を担保しながら、時代の流れに沿った構成にすることで、ヤン監督の言うように読みやすい本になったのだと思います。また、多くのテレビドキュメンタリーに見受けられるように、エモーショナルな技法を使おうと思えばいくらでもできたにもかかわらず、そうでないところにストイックさを感じました。

石丸 帰国者について、様々な書き方をしたいという想いはありますが、今回のノンフィクションについては、聞き手、書き手の登場は最小限に抑えることも決めていました。

僕個人の感想や感情は記録集には重要ではないし、その分、証言を入れないとページがもったいない。帰国者の体験をできるだけたくさん編むことに徹したいと思いました。参考にしたのは「新聞と戦争」(朝日新聞出版)です。

監視と思想統制で兄が躁鬱病に

ヤン 作者の自分語りがトレンドになった時期もあると思います。

例えば30年前にもセルフドキュメンタリー映画のブームがあって、家族をどう描くか悩んでいた私は見まくっていました。作品を見た後で、世界、もしくは視野が広がるならいいんだけど、狭いところに押し込まれるような窮屈な作品が多く、辛かったですね。

最近ではテレビのディレクターがドキュメンタリー番組の制作動機について事細かにナレーションで説明していて退屈なときがあります。

それとは違って、もし石丸さんが自分語りをすれば面白いと思うんです。だけどそこを削る潔さが良くて。重い話を淡々と進めるところも読みやすさの要因ではないかと思います。全身全霊で向き合うために捨て身で取り組む石丸さんの姿勢を私は尊敬しています。

だって普通、取材のために借りている部屋を、いくら自分が日本にいる間だからって他人に提供しますか?一体どういう人かわからないじゃないですか。

普通の人だったら、途中でやめていると思います。だって、ひとりの脱北者と向き合うだけでも大変なことです。壮絶な人生を歩み、命懸けで脱出し、中国ではある種の潜伏生活を強いられている人を支えるなんて並大抵な覚悟がないと挫折しますよ。けれど石丸さんは途中で投げ出さなかった。

私も、北朝鮮にいる兄のことを想いながら話すと、興奮するし感情的になります。そんな私の話を真摯に聞いてくれる人も疲れるはずです。語る側も、受け止める側も消耗しますから。

私は朝鮮大学校まで通いましたが、大学の4年間は、高校までとは比にならないくらいの思想教育と監視体制、自己総括批判、相互批判監視があって、慣れてはいくけれども、やはり日本社会のシステムの中で過ごすその4年間は異様なものです。4年という期限付きでも苦しかった。

兄たちはこれよりもひどい監視体制や思想統制がずっと続くわけです。日本での生活体験がある兄たちは、どうやって狂わずに生きているんだろうと思いました。

そんな時に長兄が躁鬱病(双極性障害)になったことを知り、精神を病まない方がおかしいわ、と思いました。

自由がある日本でも鬱になったりするのに、自由がない中でどうやって折り合いをつけているんだろうと考え始めると、やけ酒が止まらなかった。作品を作りながらも泣いていました。

息子たちを北朝鮮に送ってしまった両親の心中にある後悔を思うと胸が痛みましたが、同時に父は帰国事業を推し進め旗を振っていたという事実もある。父の説得で帰国した叔父に私が謝罪したこともありますが、多くの親戚にも仕送りする両親の姿を見ながら複雑でした。

仕送りは贖罪なのかと思ったり、対外的に北朝鮮を賛美する両親を見ては「自分の身内だけよければいいのか」と心の中で糾弾したりしました。

帰国事業を推し進めた組織として、北朝鮮に渡った膨大な数の同胞のその後についての把握や調査は、本来は、宣伝、説得、強制までした朝鮮総連がしなければならない仕事ですよ。朝鮮総連からのバッシングを受けながらも、この本を作ってくださったメンバーの皆さんには本当に感謝しています。

「日本社会にも責任がある」

石丸 北朝鮮での暮らしぶりについて知れば知る程、やはり日本国家と社会が背中を押した責任を感じざるを得ません。

一義的な責任はもちろん北朝鮮政府と総連にあるわけですが、日本社会は、在日とその日本人家族がなぜ9万3000人も帰ることになったのか、どのようにその背中を押したのかについて、きちんと落とし前をつけなくてはいけない。

僕は1962年生まれですから、帰国事業が始まった時代については、実体験としては何ひとつ知りませんが、資料を調べると、やはり在日に対する差別と貧困と排除がなければ、帰国事業はあそこまで大規模にならなかったはずです。

1940~50年代の日本社会は、朝鮮人に対して関心や同情を向ける人は非常に少なかった。在日の境遇や生き辛さについて主張し権利のために動いていたのは、朝鮮人連盟であり朝鮮総連だった。

だから支持を得たわけですよね。それを信じての帰国だったのですが、その結果は、本書で記した通りです。自分で自分の人生を決めらない大きな不条理が続いてしまいました。

――国家こそが自国民を迫害している事例というのは、実はたくさんあります。ヤン監督が本書に登場した人物の中で印象に残った人はいますか。

ヤン 作家のキム・チュソンさんは、ソウルに私の映画『スープとイデオロギー』を観にきてくださいました。私はロビーにいたのですが、号泣しながら劇場から出て来られました。私の次兄と仲が良かったそうです。

私の母が送る仕送りの中身に驚いて感心していたそうです。高額な仕送りではないけれど、継続的に必需品が送られてくるから、私の家族は商売か何かをしていて、お金があるのだと思っていたそうです。

映画を通して、実際は借金をしながら仕送りをしていたと知り、「申し訳ない」と泣いていました。「あなたのお兄さんたちにまた会いたい」と言いながら。『ディア・ピョンヤン』公開後、私は平壌への入国が禁じられて家族に会えなくなってしまって言葉を押し殺すようになったんです。

だから「会いたい」と言える人が羨ましいと思いました。その想いが溢れて、2人して大泣きしたのを覚えています。

石丸 彼は76年に帰国しましたね。お爺さんと一緒に。

ヤン うちの兄より帰国が遅いなんてびっくりです。北朝鮮に行って、彼は作家になりたくて作家同盟に入ったりもされたそうです。そのことについて書かれた著書も面白くて私は書評も書かせていただきました。

私の兄たちは71年に帰国した後、総連の幹部子弟だけの寄宿舎にいたそうですが、そこにも遊びに行かれたそうです。

「ヤンヨンヒ作品はどんどんスケールが大きくなっている」

――本書の刊行後、石丸さんの方にはどのような反響がありましたか。

石丸 在日の方からの感想で一番多かったのは、読み進めるのが辛かったけれど、帰国した同胞がどんな暮らしをしたのか知れてよかったというものでした。多くの方に感謝と労いの言葉を頂いたのが何より嬉しかったです。

北朝鮮で帰国者がどんな暮らしをしていたのか、情報は断片的でデータもないから、在日の皆さんにしても、苦難があっただろうとは考えられても、具体的な想像ができなかった。

梁石日さんの小説『血と骨』なんかの文学作品や映画でも、登場人物が帰国船に乗るまでは描けても、帰国後のことは欠落しています。材料がないから仕方がないですよね。僕はそれを埋めたかったわけです。

ヤン せめて事実は知りたいし知らせたい。先ほど、石丸さんは、朝鮮総連の責任を問うよりも、当時の日本政府の態度を追究しなければならないと仰いました。

朝鮮人である私は、朝鮮総連の態度や北朝鮮政府の目論見について追及する必要があります。己側の過去を忖度なくクリティカルに分析し語っていかないと、歴史も現在も未来も見えません。無責任な美辞麗句でどれほどの同胞の人生を犠牲にしたか。謙虚に振り返るべきです。

石丸 ヤン監督は朝鮮大学校を出て、そこからまず小さな境界を越えて日本のメディアの世界で仕事を始め、それからどんどん大股で越境を重ねていきます。ヤンヨンヒ作品は発表する度にどんどんスケールが大きくなっている。人生をかけて取り組んでいて、表現が生半可な覚悟でないのがわかるから、僕もすごく刺激を受けてきました。

『かぞくのくに』の中で、主人公のリエ、つまりヤンヨンヒ自身が北朝鮮から来た監視員に向かって吐いた「あんたもあんたの国も大っ嫌い」という台詞にはのけ反りましたね。

これはヤン監督にしかできない表現です。映像では、ヤン監督の「ディア ピョンヤン」を超えるものは絶対に撮れない。帰国者を描くのであれば、ファクトを重ねた強い証拠力でノンフィクションを書こうと考えてきました。

ヤン とんでもない。この本がより多くの人に読まれることを願っています。

構成/木村元彦

証言・北朝鮮帰国者 祖国に渡った「在日」はどう生きたか

「北朝鮮帰国者」の記憶を記録する会
〈「地上の楽園」の現実〉北朝鮮へ渡った9万3000人の在日朝鮮人…脱北者50人が語った「幸せな瞬間は一時もなかった」
証言・北朝鮮帰国者 祖国に渡った「在日」はどう生きたか
2026/5/151870円(税込)536ページISBN: 978-40872141231959年から25年間にわたって行なわれた在日朝鮮人の「北朝鮮帰国事業」で、日本国籍者約6800人を含む9万3340人が日本から北朝鮮に渡った。

”地上の楽園”という宣伝に望みを抱き、建国間もない”祖国”へ渡った人々を待っていたのはどんな暮らしだったのか。90年代に北朝鮮が国家的破局に至るまで、民衆レベルで何が起きていたのか。そして、どうやって修羅場を生き抜いたのか。

本書は、脱北した帰国者50人への聞き取りから構成。労働・衣食住・教育の実情、現地住民との関係、結婚とコミュニティ、厳しい統制と監視・密告、政治犯収容所での体験、在日マネーと日本文化の流入、大飢饉から脱北へ至る過程など、「北朝鮮の生活史」が初めて詳細に語られる。
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