“奥崎謙三という人は、昔、殺人を犯して、その後、天皇に向けてパチンコ玉を撃った人でしょ。大変な相手ですよ。
だって、奥崎は人をそのとき殺したいと思ってたんですから。そのために、映画を利用しようとしていた。つまり、原くんは殺人の共犯になるということですよね”

語っているのは田原総一朗。“原くん”というのは、ドキュメンタリー映画「ゆきゆきて、神軍」の監督、原一男のことだ。
その原一男は、龍村仁監督「キャロル」について、NHK上層部との闘いの経緯とともにこう書く。
“己の身体を抑圧してきた“何者か”の正体を暴き、その理不尽なものから己を解き放つことを企図したのだ”


『傑作ドキュメンタリー88観ずに死ねるか!』(鉄人社)、凝縮した熱と圧で本がぱんぱんに膨らんでいる。
73人それぞれの作品論が持つパワーはもちろん、編み集められたことによって、本書はたんなるドキュメンタリー・ガイドを遙かに超えてしまった。

たとえば、原一男の“既成の、NHK的客観性でかつ公平な作劇法ではなく、きわめて主観的だからこそ飛躍できるコラージュという方法を選んだ”という指摘は、清水節の紹介するNHKスペシャル「映像の世紀」“世界30ヶ国以上約200ヶ所のアーカイブから60000時間に及ぶ映像を選び出し”編集したことと衝突するように響き合う。
原一男監督「極私的エロス・恋歌1974」を“私的な視点で押し切る構成”と紹介する松江哲明のテキストとも交わる。
表現規制と闘う構図は、五箇公貴(テレビ東京プロデューサー)の田原総一郎に関するテキストとつながる。水道橋博士とともにテレビ番組「田原壮一郎の遺言~タブーに挑んだ50年!未来への対話~」を作ったとき、“「この番組は“放送のタブー”というものの領域を探る番組であり、そのためには、タブーとされている内容も放送しないと番組として意味がない」という入れ子構造に持っていくことで、映像のカットを最小限にとどめ放送した”

「コラージュという方法」という点で、「アトミック・カフェ」(米ソ冷戦下のプロパガンダ映像をコラージュした傑作ドキュメンタリー)とも脳内で連鎖する。“「アトミック・カフェ」は、僕が観察映画を作る上でも、重要な教訓を与えてくれた。すなわち、編集で壁にぶち当たったら、とにかく映像をよく観察すること。そして「答え」は映像にすでにある、ということ”と書くのは想田和弘監督。
その想田和弘監督の観察映画の魅力を“ドキュメンタリーの醍醐味たる“撮れちゃった”部分ですよね。いろいろ説明を付けたり、こちらのイメージを限定する要素がない分、全ての作品にディテールに目がいく面白さがある”と宇多丸が語る。

“撮れちゃった”と表現された部分は、劇作家の平田オリザが佐藤真監督「阿賀に生きる」について語っているときに使ったフレーズ「現実から一番遠いリアル」とシンクロするだろう。家族で鍋を囲んでで、老婆がペヤングソース焼きそばを食べているシーンに“そのリアルさに目眩さえも感じ”、そのような“現実から一番遠いリアルを求めて、フィルムを刻み、舞台を創り上げてきた”
最初に紹介した田原総一朗の「ゆきゆきて、神軍」についての語りとも繋属する(田原総一朗は、原一男に「キャロル」を観せた男でもある)。

ひとつのテキストが、他のテキストたちと絡まり、響き合う。その響きに、また別のテキストが答える。
読んでいるうちに脳内にネットワークが作られて、「なぜドキュメンタリーなのか」という問いに対する思索が立体的に自分の内部に浮かびあがってくる。


女優の二階堂ふみが、“人間としてどうなのって思う人もいるかもしれないけど”『意志の勝利』を薦め、女優・成海璃子が“ただただすごいものを観た”平野克之監督『監督失格』を推す。
雨宮処凜が、飛び降りの瞬間と関係者のインタビューで構成される「ブリッジ」を観て、中学二年生の“「一歩間違えていたら死んでいたかもしれない夕暮れ」の瞬間を”思い出す。
オダギリジョーが「ハート・オブ・ダークネス」と自分の経験を重ね合わせ、「撮影現場で生まれる狂気」について語る。
小林よしのりが、AKB48のドキュメンタリーを“自分の可能性の扉を開くには、自分を追い詰めて追い詰めていくしかない”と支持する。
柳下毅一郎が、“死者の声を代弁し、カメラに映らないものを描き出す”木村栄文作品を紹介する。
ドキュメンタリーを語ることが、語り手の自分自身につながっている。


もちろんドキュメンタリーのガイドブックとしても抜群に役立つ本になっている。
DVDやBuru-rayの登場で、手軽に観ることが可能になった作品も多い。
さらに嬉しいことに、4月13日(土)から26(金)まで、ポレポレ東中野で、本書で紹介されている作品の連続上映会が行われる(→公式サイト)。
『傑作ドキュメンタリー88観ずに死ねるか!』、オススメです。(米光一成)