2000年11月の引退以前、日本で最も有名な“ガイジン”と言えばスタン・ハンセンで決まりだった。“ガイジンレスラー”ではなく、全ての業界で活躍する“ガイジン”を見渡しても、ハンセンこそが日本で一番有名な存在であったのは間違いない。

WWE殿堂入りを果たしたスタン・ハンセン「首折り事件」の真相は、もはやタブーではない
ハーリー・レイスのようなゆったりテンポの“NWAスタイル”がオーソドックスであった時代に、スピーディなスタイルを持ち込んだハンセン。1980年前後に突如出現したニューウェーブであった。
(※画像は『不沈艦伝説 スタン・ハンセン DVD―BOX』ポニーキャニオンより)

プロレスファンによくある身内びいきではない。エリック・クラプトンやレオナルド・ディカプリオよりも国内での知名度は間違いなく上だったし、ビートたけしの「コマネチ!」と同レベルでハンセンの「ウィー!」は日本人に浸透していた。阪神タイガースにランディ・バースが入団した頃、バースは「スタン・ハンセンによく似ているね」と頻繁に言われていたという。

逆に、ハンセンの祖国であるアメリカでの知名度はどうなのか? 日本マット界ではスタン・ハンセン&ブルーザー・ブロディによる「超獣コンビ」が猛威を振るったが、この2人の凄さを日本人ファンから讃えられた引退後のハンセンはこう答えている。
「アメリカには我々と真正面からぶつかるようなレスラーがいなかったから、私はアメリカでは“まあまあ”だったのかな(笑)」(「KAMINOGE」vol.49より)

本人も認めるように、日本を主戦場にするハンセンのアメリカでの評価は“まあまあ”。スタン・ハンセンこそ、究極の「ビッグ・イン・ジャパン」。
内心そう思っている日本のファンは、実際のところ多かったと思う。

スタン・ハンセンは、決して「ビッグ・イン・ジャパン」ではない


今年の3月、全米一(すなわち世界一)のプロレス団体・WWEが業界に功績を残した人物を称える「Hall of Fame(WWE殿堂)」を発表。この時、日本を主戦場にしていたハンセンの殿堂入りが発表されている。

ハンセンのアメリカでの実績を振り返ってみると、たしかに馬鹿にできない。それどころか、我々が思う以上にリスペクト込みの扱いを受けていた。
1985年に、ハンセンはAWA世界王座を奪取。正直、これはジャイアント馬場の政治力によるところが大きいが、ボストンクラブでベルトを奪り、“剥奪”という形でベルトを失った流れが注目に値する。
結局のところ、ベルト所持時のハンセンに土は付いていないのだ。
1990年には突如として、WWEの当時のライバル団体「WCW」に参戦(親友であるオレイ・アンダーソンの仲介)。ベビーフェイスサイドの2番手であるレックス・ルガーと抗争を展開し、USヘビー級王座を奪取するという活躍を見せている。

もちろん、ハンセンのアメリカでの活躍といえば、WWEがまだ「WWWF」と名乗っていた1976年に起きた「首折り事件」に触れぬわけにはいかない。これで、スタン・ハンセンの名は世界中に轟くこととなった。

「ウエスタン・ラリアットでサンマルチノの首を折った」と伝えられているが……


「ハンセン首折り事件」とは、何なのか? まずは、プロレス正史に基づく逸話を綴っていく。

当時、WWWF王者に就いていたのは“人間発電所”ブルーノ・サンマルチノ。
1963年、初代王者であるバディ・ロジャースを48秒殺して2代目王者に就いたサンマルチノは、71年にイワン・コロフに敗れて王座から転落。
サンマルチノの後にはイワン・コロフやペドロ・モラレスらが王者となったが、観客動員は右肩下がりに減少。この状況を憂いたビンス・マクマホン・シニア(以下、シニア)はサンマルチノに再出馬を要請。結果、サンマルチノは当時の王者であったスタン・スタージャックにわずか4分で勝利し、第6代王者としてカムバックした。

この代の王者時代に、サンマルチノはフリッツ・フォン・エリックが築いたダラスの“鉄の爪ランド”でくすぶる無名のスタン・ハンセンを挑戦者に指名した。なぜハンセンが抜擢されたかというと、動員面の苦戦が記憶に新しいシニアが「デクの棒でも体の大きい奴の方がMSG(WWWFの定期戦会場)向き」と判断したためである。

果たして実現した選手権試合で、ハンセンは必殺のウエスタン・ラリアットを見舞い王者・サンマルチノの首の骨を折ってKO。ノーコンテストと裁定され王座奪取とはならなかったものの、この武勇伝を手に“首折り男”の異名でハンセンは新日本プロレスに招聘され、サクセス・ストーリーを歩んでいくこととなる。

以上が正しい“プロレス史”における詳細であるが、この話をいまだ信じ込んでいるファンはもはやいないだろう。

ボディスラムで投げた瞬間、「しまった!」という表情に


ハンセンのWWE殿堂入りが発表され、それと同時にWWEは「Stan Hansen joins the WWE Hall of Fame Class of 2016」なる公式動画をアップ。そこには、件の「サンマルチノーハンセン戦」中の1シーンが収められていた。噂には聞いていたものの、初めて目にした人は多かったと思う。ハンセンが異常な急角度のボディスラムでサンマルチノを投げ落とし、サンマルチノが受け身を取り損なっている場面である。


1993年に発行された別冊宝島「プロレス必殺技読本」において、プロレスライターの流智美氏はかなりスレスレな内容のコラムを寄稿している。サンマルチノの首を骨折させたのは「ウエスタン・ラリアット」ではなく、「ただのボディスラム」であったことを検証する内容である。
流氏は、この一戦のビデオを実際に鑑賞。ボディスラムによりサンマルチノの首がマットに直角にめり込む瞬間、当時26歳のハンセンは明らかに「しまった!」という表情を見せたという。ボディスラムを食らった直後のサンマルチノは、尋常ではない悶え方でリングを七転八倒。結果、ドクターからストップが入って試合は中断された。


81年、流氏は日本でサンマルチノ本人に「首折り事件」についてのインタビューを敢行。「あなたの首の骨折はウエスタン・ラリアットによるものではなく、ボディスラムによるものではないでしょうか?」と質問されたサンマルチノは、以下のように回答したという。
「そのとおりだよ。あのボディスラムを受けてから、首から下が麻痺してしまって。それから二週間もの間、自分の力でトイレに行くこともできなかった」(サンマルチノ)
サンマルチノ曰く、ハンセンが仕掛けようとしたのは「ボディスラム」ではなく「ショルダーバスター」であったという。たしかに問題のシーンを見返すと、ハンセンの右腕はサンマルチノの股間に入っておらず、サンマルチノの腰を抱える位置にある。

流氏は凄い。80年には来日中であった“加害者”ハンセンに、「首折り事件」について質問しかけているのだ。
問題のサンマルチノ戦について流氏が触れると、ハンセンは「I Don’t Remember」「I Don’t Know」を連発して、この話題はあえなくシャットアウト。自身の出世試合とは言え、プロレスラーとしての“未熟”をハンセンは掘り起こされたくなかったのだろう。

その後、日本で他に類がない域の大活躍を見せたハンセンも遂に引退。2015年に発表した自伝『日は、また昇る』では、自らサンマルチノとの一戦について触れている。
WWE殿堂入りを果たしたスタン・ハンセン「首折り事件」の真相は、もはやタブーではない
引退後のハンセンは、コロラドの自宅で“専業主夫”の生活を満喫中。アップルパイから各種パスタまで、ある程度のものは作ることができるという。
(※画像は『日は、また昇る』徳間書店より)

「私は試合中のアクシデントで、ブルーノの首に重傷を負わせてしまった。だが、ブルーノは人格者だ。自身のレスラー生活を脅かすような怪我を負わせた私に対しても、極めて真摯に、先輩レスラーとして私が今後進むべき道を、その折ごとにアドバイスしてくれたのだ」(ハンセン)

ハンセンが新日本プロレス参戦を決めた時、サンマルチノは「猪木のことはわからないが、馬場が言ったことは100パーセント信用できる。もしオファーがあったら、彼の下で安心して働いていい」と助言したという。後年、馬場とハンセンとの間に生まれた信頼関係については言うまでもないだろう。

アンドレ・ザ・ジャイアントをボディスラムで投げた史上五人目のプロレスラー


新日本プロレス初登場以降、ハンセンは“首折り男”の代名詞である「ウエスタン・ラリアット」を武器に日本マットを席巻していくこととなる。

事の真相を知ったからと言って、ウエスタン・ラリアットの凄みがスポイルされるわけがない。どれだけ、我々があの“衝撃”と“戦慄”と“爽快感”の虜となったか。ちなみにこの技は、アメフト選手時代のハンセンが全速力で走ってくる相手の突進を止める際にとった動きが元となっている。
「ラリアットを使う以前は……負けるだけの試合だったから(必殺技は)何もない(笑)。人のフィニッシュ・ムーブをひたすら受けまくるポジションだったよ(笑)」(ハンセンによる発言 「G SPIRITS Vol.27」インタビューにて)

サンマルチノ戦以前のハンセンを知るほど、この後の彼のサクセス・ストーリーの奇跡を痛感する。そして、それはすなわち日本のファンにとって幸せな時代である。
漫画『最狂 超プロレスファン列伝』作者である徳光康之氏は、1993年に発行された別冊宝島「プロレス名勝負読本」にコラムを寄稿。伝説の「スタン・ハンセンーアンドレ・ザ・ジャイアント戦」(1981年)をテレビ観戦した高校3年時の衝撃を振り返っている。
「“世界で五人目! 世界で五人目!”古舘アナが絶叫している。スタン・ハンセンがアンドレ・ザ・ジャイアントを持ち上げ、ボディスラムで投げたのだ。アンドレをボディスラムで投げた公式記録をもつプロレスラーはこのときまで世界で四人しか存在せず、ハンセンがその五人目となったというのだ」
「ハンセンがアンドレを持ち上げ、完璧にボディスラムで投げた瞬間、テレビ中継で観ていた私の体が、おおおッとわずかながらだが宙に浮いた気がした。まるで体中のすべての細胞が同時に上方へ跳ね上がったような浮遊感。これか! これが感じたくて、私はプロレスを観続けているのか!」

徳光氏による『スタン・ハンセン 祝WWE殿堂入り』という漫画が、今度は2016年発行「ゴング」第13号に掲載されている。
「遅いんじゃ、ボケーッ。今ごろ遅いんじゃ、WWE もっと早く殿堂入りさせんかい、ボケーッ」
「アンドレをボディスラムで投げた時点で殿堂入りやろうが!! いやッ、猪木からNWF奪取の時点で殿堂入りやろが いやッいやッ、ウエスタン・ラリアート開発の時点で殿堂入りやろが いやいやいや、WWWFから追放されてもプロレスをやめなかった時点で殿堂入りや!!! だから1976年のハンセンの殿堂入りにロングホーン」

ボディスラムでプロとしての“未熟さ”を露呈したハンセンが、ボディスラムで今度はファンを感動させている。やっぱり、ハンセンは凄い。

「サンマルチノの首を折ったのがボディスラムのミスであった事は広く知られています」


「G SPIRITS Vol.27」にてハンセンのインタビュアーを務めた小佐野景浩氏は、ある箇所で「サンマルチノの首を折ったのは、あなたのボディスラムのミスだったという事実は今では広く知られています」とハンセンに直接切り出している。もはや、この事件はハンセンにとってもタブーではなくなっているのだろう。
これは、ハンセンのプロレスラーとしての“成熟”が理由でもあるし、サンマルチノの優しさが理由でもあるし、もちろんハンセンのプロレスラーとしての成功が理由でもある。

日本の全世代のプロレスファンに「最も好きなガイジンレスラーは?」と質問したら、スタン・ハンセンが1位になるはずだ。「最も好きな必殺技は?」と尋ねれば、ウエスタン・ラリアットが1位となるに違いない。
これほどまでの功績がアメリカに届いたからこそ、WWE殿堂に到達した。そしてその根源には、WWWF(WWE)で失態を犯した若き日のハンセンがいる。
(寺西ジャジューカ)