3500kmを走るウルトラマラソン世界記録保持者がベジタリアンのわけ
撮影:Luis Escobar氏
全長3489kmのアパラチアン・トレイルを46日8時間7分で完走し世界記録を樹立したスコット・ジュレク氏。完全菜食主義者のビーガンとしても有名だ。

世界一過酷なウルトラマラソンで世界記録!


42.195kmのフルマラソン以上の距離を走るウルトラマラソン。四万十川ウルトラマラソン(100km)やウルトラトレイル・マウントフジ(170.3km)など日本でも人気が出てきているが、競技は人間の極限に挑戦するものだ。

厳しいレースでは幻覚を見る人もおり、レース中の嘔吐も当たり前で、なかには吐きながら走り続ける強者もいるという。


その過酷極まりないウルトラマラソンのコースの中でもとりわけ過酷と言われているのが北米のアパラチア山脈を縦断するアパラチアン・トレイル(AT)だ。全長3489km。日本地図を広げてみて欲しい。北海道の択捉島の最北から沖縄の与那国島までが3300km弱だ。この気の遠くなるような距離に加え、約150kmの累積標高差がATを世界一過酷と呼ばれるものにしている。

この夏、ATの世界記録(FKT:Fastest Known Time)が生まれた。
所要時間は46日8時間7分。一日平均の走行距離は約80kmだが、舗装された道路を走っているわけではない。走るのは山道で、ゴツゴツした岩場もある。1マイル(約1.6km)抜けるのに90分もかかるような難所もあり、嵐のような荒天でも時計は止まってくれない。想像を絶する荒行だ。

世界記録樹立者は完全菜食


3500kmを走るウルトラマラソン世界記録保持者がベジタリアンのわけ
ジュレク氏がATで実際に履いていたBrooks社のPuregrit。自ら開発にたずさわったBrooks社の靴を挑戦中8足履き潰した。

記録を打ち立てたのはスコット・ジュレク氏。アテネ―スパルタ間を走るスパルタスロン(246km)三連覇、ウェスタンステーツ100(161km)7連覇、24時間走元アメリカ記録保持者(266.01km)と、数々の記録を樹立し続け、ウルトラマラソン界では知らない人のいないスーパーレジェンドだ。


そのジュレク氏、実はビーガン(完全菜食主義者)としても有名なのだ。究極的に体力を消耗するのでウルトラマラソンを続けながらも肉類は一切食べていない。実はジュレク氏に限らず、ウルトラマラソン走者にはベジタリアンが多いという。

ベジタリアン食に変えてから体力が落ちたということを言う人もいる中、体力の限界に挑まなければいけないウルトラマラソン走者がベジタリアンで大丈夫なのか? なぜウルトラマラソン走者にベジタリアンが多いのを、アパラチアン・トレイル世界記録樹立記念イベントで来日したスコット・ジュレク氏に聞いてみた。

1時間睡眠で世界記録を樹立


――ATの世界記録樹立おめでとうございます。
ジュレク氏:「ありがとう。今まで行ってきた数々のチャレンジの中でも一番タフなものでした」

――番キツかったのは何でしたか?
ジュレク氏:「記録を達成した最終日は疲労が蓄積した状態だったにも関わらず、1時間睡眠で起きてすぐに走り出さなければならず本当に大変でした」

――1時間睡眠! 記録に挑戦している間は毎日どれくらいの睡眠を取っていたのですか?
ジュレク氏:「記録達成のために毎日大体13~14時間トレイルのコース上にいました。
最後の方は16~20時間いました。だから睡眠時間はいつも4~5時間程度でした。6時間寝られることはほとんどありませんでした」

――睡眠同様、栄養補給も大切だと思うのですが、食事の時間はどれくらい確保できていたのですか?
ジュレク氏:「コース上に車道と合流するところがあるのですが、そこで物資補給をしてくれる妻のジェニーと落ち合って、始めのうちは20~30分かけて食べていましたが、最後の方は時間がなくてほとんどトレイル上で食べていました」

――ATなどウルトラマラソンを走るとき、滋養面で気をつけなければいけないことは何ですか?
ジュレク氏:「走るとき一番大切なのは炭水化物です。炭水化物をきちんと摂り続けなければいけません。僕は20~30分ごとに25gの炭水化物を摂るようにしています。炭水化物は筋肉のエネルギー源になりますが、それ以上に重要なのはマインドに対する影響です。
ウルトラマラソンは単に肉体的な競技というよりも、マインドが大きく影響する競技です 。そのために脳が必要とするブドウ糖を炭水化物を通じて摂取し続けることが必須です。同時に体力を回復させなければいけません。そのために必要なのがタンパク質と脂質です。ただ繰り返しになりますが、走っている時に一番大切なのは炭水化物です」

おにぎりはベストの炭水化物源


3500kmを走るウルトラマラソン世界記録保持者がベジタリアンのわけ
ウルトラマラソンに取って炭水化物補給は必須。おにぎりは炭水化物補給に最適の食べ物だとジュレク氏はいう。

――具体的にはどのようなものを食べるのですか?
ジュレク氏:「エナジーバーなどに加えて普通の食事も摂ります。走っている最中はおにぎり、ブリトー、ポテト、バナナなどを食べて炭水化物を補給していました」

――おにぎり!
ジュレク氏:「ええ、おにぎりは走行中の炭水化物補給には最適ですね。日本でレースに出た時にヒロキさん(プロトレイルランナーの石川弘樹さん)から教わりました」

――タンパク質や脂質はどのように摂取したのですか?
ジュレク氏:「ATでは毎日走り続けるので回復させるための脂質は大切でした。
特に毎日6000~7000kcal摂取する必要があったので、カロリー摂取のためにパスタにオリーブオイルを多めにかけたり、アボカドなどで良質の脂質を摂ったりしていました」

何を食べるかよりも、何を食べないか


――ジュレクさんはビーガンとして有名ですが、炭水化物、脂質、タンパク質の摂取のためでしたら、菜食である必要はないのではないですか?
 ジュレク氏:「最高のコンディションを保つためには最良の食事(cleanest diet)が必要です。多少の肉や魚が必ずしも悪いわけではありませんが、アメリカではタンパク質の供給源として肉などの動物性タンパク質に重きが置かれすぎています。でも肉を食べ過ぎると心臓病や糖尿病になる危険性が高まります。特にあまり品質の高くない安価な肉は抗生物質やホルモン剤が投与されているので、それらを摂取してしまうことになってしまいます。逆にビーガンならそうしたよくないものをデトックスすることができるので、キレイな体(cleanest body)を作るには向いています。何を摂るかということだけではなく、何を食べないかも大切だと思います」

――中にはベジタリアンになって体調を崩したという人もいますが?
ジュレク氏:「そうした人たちは、カロリー不足に陥っているとこが多いと思います。先ほどお話したように、炭水化物と脂質とタンパク質のバランスと十分なカロリーを摂取することが大切です」

活力みなぎり、回復早い菜食


3500kmを走るウルトラマラソン世界記録保持者がベジタリアンのわけ
『Eat & Run :100マイルを走る僕の旅』(スコット・ジュレク著)。この一冊にジュレク氏の半生、ウルトラマラソンの苛酷さ、そして美味しいビーガンレシピが詰まっている。

――ご著書の『Eat & Run : 100マイル走る僕の旅』(NHK出版)の中で、ビーガンになってから回復が早くなったと書かれていますが、本当ですか?
ジュレク氏:「本当です。ビーガンになると活力がみなぎるようになり、回復が早くなってきます。
いい燃料を体内に入れると、回復が早くなっていきます。僕は21年間ビーガンを続けているので、継続によって体が回復に最適化されてきていると感じます」

――同書には関節痛も減ったと書かれていましたね。
ジュレク氏:「関節痛は炎症によるものが多いと思いますが、肉に多く含まれている酸は炎症を促進してしまいます。他方野菜やフルーツはむしろ回復に向かわせてくれます」

――ウルトラマラソン走者にはあなた以外にもベジタリアンの人が多いようですが、それはあなたがトレンドを作ったからですか? それともベジタリアンがランナーにとって合理的だからですか?
ジュレク氏:「合理的で、人々が実際に様々な効果を感じるからだと思います。ウルトラマラソン走者は大きな視点に立つことが多いので、近視眼的にタイムを縮めることよりも、長く健康的に走り続けられることを目指す人が多いということもあるでしょう」

野菜・果物、新しい食材、そして自炊


3500kmを走るウルトラマラソン世界記録保持者がベジタリアンのわけ
ベジタリアン食のひとつであるマクロビオティックは、伝統的な日本の食事に基づいている。

――日本にもレベルを問わず多くのランナーがいますが、食生活上のアドバイスはありますか?
ジュレク氏:「全員にビーガンになれといっても無理でしょうから、まずはできるだけ野菜と果物を多く取り入れることですね。それから毎月、ひよこ豆、テンペ、キノアなどといったような新しい食材にチャレンジしてみるのもいいです。そして自炊ですね。自炊することによって自分が食べるものに自覚的になりますし、コントロールしやすくなります。別に凝ったものでなくても、シンプルなものでいいんです。最もヘルシーな食事は往々にしてとてもシンプルです。幸い伝統的な日本食である玄米や豆腐、味噌汁や枝豆、小豆などはとても健康的な上に高価でもありません」

――ビーガンにチャレンジしてみたい人はどうすればいいですか?
ジュレク氏:「劇的な効果を経験してみたいならスパっとビーガンになるのもいいと思います。でも僕の場合は一年半くらいの移行期間がありました。徐々に赤身肉を減らし、魚を減らし、そして乳製品を減らしていくといった具合でした。その間、様々な文献や研究論文を読んでいたので劇的な効果は感じられなくても、いい方向に向かっているという確信が持てました。一般的には移行期間を設けたほうが楽なのではないかと思います」

――最後になりますが、ATの次の挑戦はなんですか?
ジュレク氏:「3カ月近く経ちましたが、まだATの体験を消化中なんです。人生で最も大変なチャレンジでしたから。しかるべき時が来たら自然とまた目標は決まってくると思いますが」

――ATはビーガン食ほど簡単に消化できないんですね。
ジュレク氏:「ははは、そうかも知れません」

超大物監督による映画化も


アパラチアン・トレイルという想像を絶する荒行をくぐり抜けたジュレク氏は、とても柔和で人当たりがよく、一切の毒気が感じられなかった。彼のようなウルトラマラソン走者しか見えない景色があるのかも知れない。そしてその景色に興味を持つものは少なからずいるようだ。

「タイタニック」や「アバター」の監督として有名であり、自らビーガンとしても知られるジェームス・キャメロン氏はATに一部同行してジュレク氏の挑戦を撮影した。映画化も検討しているという。

自分の経験を通じて人々に運動や食事の大切さを啓発していきたいというジュレク氏自身も、現在この経験を本にまとめている最中だという。映画と書籍が出るのが今から待ち遠しい。(鶴賀太郎)