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高橋大輔 フィギュアスケート男子シングルからアイスダンスへ――観客を魅了し続ける珠玉の表現者
イラスト/おうか

2019年9月。フィギュアスケート男子シングルのパイオニア、高橋大輔(「高」は正しくは「はしご高」)は、アイスダンスへの転向を発表した。
ここまでのトップ選手の競技種目変更は、前代未聞。しかしそもそも、彼のキャリアは驚きの連続だった。比類なき表現者である高橋大輔の演技を振り返る。

浮き沈みが激しく転倒ばかり。でも目が離せない表現力

岡山県倉敷市出身、8歳のときフィギュアスケートを始めた。特別裕福な家庭ではなかったが、家族の献身的な協力、そして地元の人々のカンパを受けながら競技を続けてきた。
彫りが深く、ワイルドなファッションが似合うのと裏腹に、几帳面で繊細な一面を持つ。

2001年、全日本ジュニア選手権優勝。2002年には世界ジュニア選手権で日本男子初の優勝を飾る。一方で、成績には波があった。会心の演技で優勝する試合もあれば、「まるで転ぶのを観に行ってるみたい」とファンが苦笑するような試合もあった。それでも、演技から目が離せない。
また観たいと思わせる魅力があった。

浮き沈みの中、躍進したのが2005-2006、トリノ五輪のシーズンだ。NHK杯では、シングル選手として世界で初めて、ステップでの最高難度レベル4を獲得。グランプリファイナルに初出場し3位、日本男子初の表彰台。全日本選手権で初優勝。1枠しかなかった、トリノ五輪の出場権を獲得、8位入賞を果たした。


衝撃のヒップホップ

世界的にも驚かれたのが2007-2008シーズンのSP(ショートプログラム)「白鳥の湖 ヒップホップ・バージョン」。ヒップホップ独特の、軽快な弾みの中にある「重み」のテイストが、高橋選手のスケートに絶妙にハマっていた。競技プログラムの要素を守りながらも、踊りまくる。この化学反応のような演技は、フィギュアスケートの可能性を広げ、以降のプログラム使用曲に大きな影響を与えた。この時期はグランプリシリーズでも連勝、トップスケーターへ駆け上がっていった。

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選手生命を脅かす大ケガ、そして進化

2008年10月、バンクーバー五輪プレシーズン。右足膝の前十字靭帯と半月板を損傷という、選手生命が危ぶまれるケガに見舞われ、シーズンの全大会の出場を断念する。この手術から完全復帰したスケート選手はそれまでになく「復帰できたら、それだけでも奇跡」というような大ケガだった。


苦痛を伴う長期のリハビリは、辛さのあまりボイコットしたこともあるという。それでも耐え、2009年のアイスショーで復帰した。

この時披露したのは「Luv Letter」。モダンなリズムの上で繊細なピアノのメロディーが舞う。観客は、彼のスケーティングの伸びやかさが、負傷前以上であることに気づかされる。持ち前のエッジワークの巧みさに加え、氷に吸い付くような滑り。
それは、リハビリに耐える中で下半身の可動域が広くなったことによる進化だった。

上半身の柔軟性も合わせて向上した。フィギュアスケートの「ステップ」では、複雑なターンなどの足技の一方で、上半身は大きな動作による表現が求められる。これは非常に難しく、足がよく動いている一方、上半身がついていかず印象としてちぐはぐに見えてしまう選手も多い。高橋選手はもともとステップの名手だったが、ケガ以降の演技では一層磨きがかかり、まるで自由に踊っているかのようだった。

バンクーバー五輪で日本男子初の表彰台、世界選手権も制す

ジャンプを取り戻すのに苦心しつつも、バンクーバー五輪では銅メダル、続く世界選手権では待望の金メダルを獲得する。両方とも日本男子初の快挙。
そして世界初の4回転フリップにも挑戦、回転不足判定ながら実行要素としては認められた。

このシーズンのFS(フリースケーティング)の「道」は物語性豊かで、コミカルなマイムから感動的なエンディングまでの流れの中に、様々な魅力が詰まっている。一方、SPの「eye」は、高橋選手の最も魅力ある部分を全面的にフィーチャーした作品だと思う。

冒頭で印象的な、ガラスの割れる音。これは、音楽編集の担当者の計らい。高橋選手が昔、本番では持てる実力を発揮できず「ガラスのハート」と呼ばれていたことから、「先に割っておいてあげよう」との気持ちだったという。この演出で一気に彼の世界が開き、スタイリッシュながら情熱的な演技に魅了される。振付師・宮本賢二との絶妙なコラボが花開いた作品だ。特に、後半のブレイクからの跳ねるようなステップは圧巻だ。

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高橋選手が組んだ様々な振付師の中でも、最も彼を知り、その特徴を生かしているのは宮本賢二だと思う。「バチェラレット」、「ブエノスアイレスの春」などのエキシビションナンバーで、高橋の身体表現力とスケーティングを存分に生かした、濃厚な世界観のプログラムを作り出している。ソチ五輪シーズンはSPを再び担当した(後述)。

チャレンジで演技の幅が広がり、より熟成されたプログラムに

バンクーバー五輪後も果敢に戦った。グランプリファイナルにも毎年出場し、2012年には日本男子初(何個目?)の金メダルを獲得。試合に勝ちたい気持ちは当然あっただろうが、この頃彼が取り組むプログラムは、決して保守的ではなかった。インタビューなどでも感じるのは「勝つ」ことより「観客に喜んでもらう」ことへの渇望だ。

マンボ・メドレーでは観客にカーニバルのような高揚感を、ロックンロール・メドレーではロックライブのような熱狂を届け、一方で得意なタンゴや王道のクラシックでも魅了する。

とりわけ挑戦的だったのは、「ブルース・フォー・クルック」。モダンジャズらしい緊張感と哀愁が漂う、通好みな渋い曲。しかし音数も全体の起伏も少ない難曲だ。だが、高橋選手はシーズンを通じてものにしていった。静かな曲調だからこそ、彼のスケートが、表現力が際立つ。そしてこの曲の魅力も教えてくれたように思う。ベテランだからこそ出せる、クールな大人の男性の色香が漂う、今までにない演技を観客に届けた。

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ソチ五輪シーズン、SP「ヴァイオリンのためのソナチネ」で宮本賢二と再タッグを組む。五輪直前、ゴーストライター問題が発覚するという前代未聞の事件の方が、一般の人たちの印象に残ってしまったかもしれない。しかしこのプログラムは、ここまでの高橋・宮本コラボの集大成とも言える傑作だと思う。もの悲しいヴァイオリンとピアノの調べは、氷に吸い付くようなスケーティングと絶妙な調和を見せる。静かな深い響きが、研ぎ澄まされた身体表現によって溢れ出し、苦悩とそこに差す光が感じられた。

特に素晴らしかったのはSPのパーソナルベストスコアを出した2013年NHK杯。軽やかなジャンプとスピンで彩られた、迫真の演技だった。

FSの「ビートルズ・メドレー」は、彼のパフォーマンスの幅広さが詰め込まれていて、一曲ごとにその色を変えていく。印象的なのは、ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロードの表情。支えてくれた親しい人たち、そしてファンへの感謝なのだろうか。気さくで、仲間や先輩、後輩たちに「大ちゃん」と慕われる人柄の温かさと誠実さが感じられる穏やかさ。そしてこれまでの競技人生に思いを馳せるような、切ない笑顔だった。

引退、電撃復帰、その先は――

ソチ五輪シーズン後、引退を発表。NYでのダンス修行の後、ダンスショー「LOVE ON THE FLOOR」や歌舞伎とのコラボレーション「氷艶」など様々なアイスショーに参加。様々な経験を積んでいたが、2018年、32歳にして競技復帰を宣言した。

前シーズンの全日本選手権を実況席で観戦し、それぞれの目標を目指す後輩たちの激闘に、心を動かされたのだという。トップ争いに加われなくても、自分らしいスケートをしたい──自身が大きく貢献してきた男子フィギュア界の後輩たちが、彼を氷上に引き戻した。

復帰後の2シーズンは、一体何年ぶりなのかという地方ブロック大会からのエントリーや、簡単にはいかない体づくりと不調などに苦労しつつ、どこか、吹っ切れて楽しんでいる印象もあった。ソチ五輪前より更に、自分がやりたいことは何かを貪欲に追い求めていたように思う。

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FS「Pale Green Ghosts」の振付は、独創的な作風で脚光を浴びているブノワ・リショー。クラシックとモダン、陰鬱さと情熱が交じり合うような複雑な曲を、限界に挑むようなステップで駆け抜ける。ラストシーズンのSP「The Phoenix」は、ダンス振付師シェリル・ムラカミのスケートを前提としない躍動的な振付を、高橋選手の大ファンでもあるミーシャ・ジーがスケートに調和させたコラボレーション。パワフルなロックを存分に体現し、痛快なぐらい踊り倒す。できることなら、世界での披露が見てみたかった。

そして今、高橋大輔はアイスダンスの道を歩みだしている。ただでさえシングルと全然違う種目、さらにコロナ禍で、平坦な道ではなさそうだ。それでも次、パートナーの村元哉中選手と共に氷上に現れるときには、きっと嬉しい驚きを届けてくれるに違いない。
(冴西理央)