圧倒的な飛距離と切れ味鋭いアイアンショットを武器に、13年に年間4勝を挙げて賞金女王のタイトルを獲得した森田理香子。さらなら活躍が期待されたが、その後は下降線をたどり、16年にはついにシード権を手放す。
18年のニチレイレディスを最後にツアーには出場していないが、一体何があっただろうか。4回にわたり、森田の過去、現在、未来に迫る。今回はゴルフを始めてから賞金女王獲得までを振り返る。
森田理香子がゴルフを始めたのは8歳のときだった。祖父がゴルフ練習場を経営していたこともあり、ゴルフに触れることは自然な流れだったといえる。ジュニア時代から数々の大会で結果を残し、16~18歳までの3年間はナショナルチームでも活躍したが、けっして自分が秀でていると思ったことはないという。

同い年に金田久美子や宮里美香といった早い時期から注目を浴びた選手がいたことも大きい。彼女たちに追いつくためには、ひたすら練習するしかないと考え、ゴルフに没頭した。その姿勢は高校を卒業してプロに転向してからも変わらなかった。
むしろプロに転向してからの方が、ゴルフに対する情熱はますます燃え盛った。特に10年夏から岡本綾子に師事するようになると、人生の多くをゴルフに費やすようになる。
「とにかくゴルフひと筋の人生でした。
トーナメントで結果を残すことだけを考えていたので、それ以外の仕事は一切受けず、そんな時間があれば練習に費やすという生活でしたね」
おしゃれをしたい年ごろではあったが、ほかの選手がネイルサロンに行っても興味を持つことはなかったという。そんな暇があるなら、練習場でボールを打っていたいという考え方だったからだ。
「ゴルフを教わっていた足立香澄さんから練習しないとダメだよといわれていたこともあり、昔から練習量は多かったと思います。ほかの人がやっていない時間に練習することで、その差を埋めるという考え方でした」
森田がさらに練習するようになった理由の一つに、岡本から紹介された実業団のソフトボールチームと一緒に練習したことが挙げられる。同じアスリートという立ち位置ではあるものの、明らかに体力面での差を見せつけられたのだ。「例えば、グラウンドをランニングしても3週ぐらい遅れるわけです。
自分が何もできなかったことがとにかく屈辱的でした」。今でこそシーズン中もトレーニングに励むのは当たり前になっているが、当時はまだそれほどでもなかった。しかし、森田は徹底的に自分を追い込むようになり、寝る間を惜しんでも毎日トレーニングに取り組むようになった。
もちろん、技術的な練習も欠かさない。「朝から晩までボールを打っていたし、岡本さんの指示に従っていれば間違いないと、言われたとおりの練習をこなすだけでした」。当時の森田はいいスイングを身につけることが目標であり、そのためにはアドレスからすべてを変えていた。
スイングをよくすることによって、ボールもイメージ通りに飛んでいくようになると考えていたのだ。それを証明するかのように13年はツアー4勝を挙げたが、「これだけ練習していれば、負けないよな」と思っていたという。ある意味、心技体すべてが充実していたからこその結果であった。
しかし、それでもまだ技術的には満足していない。ジュニア時代から海外の試合に出場していた森田だが、プロになってからも海外志向は少なからずあった。しかし、岡本からは、「フェードとドローを自由に操れないと海外では勝てないよ」と言われていた。
当時の森田はドロー一辺倒であり、自由に操れるほどのフェードを打つ技術はまだ身につけていなかった。実際、海外のメジャーに出場してみると、痛いほど岡本が発したことばの意味を痛感させられた。ドローだけでは攻めきれないホールが少なくなかったからだ。
ただ、国内ツアーでは横峯さくらとの接戦を制して初の賞金女王のタイトルを獲得する。ついに日本一という目標を達成したわけだが、森田にとってはそのことが逆にツアープロ人生を縮めることになるとは、まだだれも予想していなかった。(文・山西英希)