『魔群の通過―天狗党叙事詩』(文藝春秋)著者:山田 風太郎Amazon |honto |その他の書店

◆ただただ怖ろしい小説
山田風太郎の面白さは読んでみればわかる。

で終わりにしたい。
書き出せば長い。

私は戦後九年目の生れで墨ぬり少国民の世代には属さない。しかし一方、皇国史観は隠微に民間の児童向歴史書に生きていて、そうしたシリーズ物で私は歴史を覚えた。神武天皇のヤタガラスから安徳天皇の入水から児島高徳(こじまたかのり)の「天、勾践を空しうすることなかれ」までナンデモアリであった。これを読むととにかく善玉悪玉がはっきりしていて楠木正成は良いモンで足利尊氏は悪いモン、井伊直弼や阿部正弘はばかモンで、西郷と勝がりこうモンという、こういう二項対立的な歴史観は案外、私にすり込まれていた。

一方で戦後民主主義あるいは社会主義の立場に立つ歴史学者も、明治政府の圧制は告発するが、本来が進歩史観だから、明治維新と文明開化は封建制を打破し、民衆の迷妄を開き、しかも生産力を発展させる点で評価すべきことだと説いていた。


山田風太郎『幻燈辻馬車』はあっさりその勧善懲悪と進歩史観の思い込みをくつがえしてくれた。根津の遊廓が出てるよ、と町の老人に教わって手にとり、一気に読む。権力奪取の政治史の陰に、棄てられ世に入れられずにしまった人々の痛み、生活の根っこの悲しみのようなものが惻々と伝わってきた。いわば「闇の明治」である。まさに私のいる上野や谷中、根津は敗者の根城であったところではないか。影響されて自分の雑誌で「彰義隊の忘れもの」という特集を組んだ。


しかしコトはそう簡単ではない。薩長が悪で旧幕臣=善といった逆の二項対立でも歴史は見えない。戊辰の役の官軍から自由民権の闘士がとび出し、会津藩士が邏卒(らそつ)として西南戦争に赴く。やられたらやり返せの怨念も加わっての修羅場こそが人間世界である。

一作だけあげよといわれれば『魔群の通過』(文春文庫)である。元治元年、水戸内戦に発する天狗党の長征を扱ったリキの入った作品だ。
地の文の緊張感はすさまじい。初読ではただただ怖ろしい小説であった。

水戸出身の徳川慶喜に攘夷を訴えるため天狗党千人の武装集団が、那珂湊から上州、信濃、木曾、美濃、そして越前敦賀にいたる厳寒二百里。十字軍さながら、少年や女をつれ、大砲を引きずって山や谷を越える。天狗勢は途中、略奪、暴行はせず、ただ軍規に反する者の首をころころと落としていく。その光景を想像するだけでうなされそうだった。


語り手に、福井地裁判事となった耕雲斎の子を持ってきたのはいい考えである。十五歳で天狗党に加わり、この目で見たことを、敦賀史談会で語るという設定。円朝の噺を毎晩ロウソクの灯のもとで聞くような気がする。

その二百里を作者はもっぱら車で踏破しようと試みて果たせなかったという。道の開けた現代ですら不可能だった。「体験しない人間には話してもダメだ」。
作者は嘆息している。

攘夷か開国か、勤王か佐幕か、さまざまな組み合わせがある。攘夷のための倒幕であったり、ただの旗頭であったり、面従腹背であったりした。状況が変わるとき、思想に固執すべきか否か。不易のテーマである。

天狗党は斉昭公の息慶喜なら我々の心中を察して下さるにちがいない、というはかない期待を賭ける、これがじつに日本的。
降伏をすすめる方も、謀略にかけるつもりでなく善意であったのに、担当者が替わると約束がいとも簡単に反故にされて打首にされる。約束の生きない日本社会、それも作者の強調したかったことだろう。

山田風太郎は天狗党の愚かしさを簡単に断罪せず、反対にその滅びの美学を持ちあげてもいない。むしろ、魔群の通過の地点地点で、「拙者、天狗党をたちどころに粉砕してごらんにいれる」と大言壮語しながら、彼らが引き返してくると知ると恐怖にかられて泣く子の首を絞めた茅岳天骨の怯懦(きょうだ)、安部摂津守の「賊徒恐怖いたし候や、駈け向い一戦もつかまつらず敗走」という噴飯ものの報告書、天狗党が通過したあとで大砲を三発撃っただけの高遠藩の腰ぬけぶりを描く。まさに天狗党は幕末の日本を映す鏡であった。

一方、天狗党という攘夷狂信集団自身も内部崩壊してゆく。小説という虚構の中で、その原因は目の中の異物のような二人の女である。天狗党のサン・ジュストというべき田中愿蔵の色女であり、ひたっと追って来ながら手を出さぬ追討総督田沼意尊(おきたか)の妾であったおゆん、天狗党と対立する諸生党の首魁市川三左衛門の娘お登世。異物だが人質でもあって道に捨てては行けない。

ゆんは色気で組織をくずしてゆく。一筋縄ではいかぬ悪い女である。だけれど「あなたはあなた、わたしはわたし。……それじゃあ、あなたは好きなようにお死になさい」と男に言い切るかっこいい女でもある。

山田風太郎作品が他の多くの時代小説と異なるのは、女が自己の主張を持ち、生き方を貫徹する点にあるのではないか。ゆんも登世も天狗党に利用されているようで、実は自分の意志で生きている。女の方がよほどコトの本質は見えている。「頭に血がのぼって殺しあいをつづけている男ども」の「果てしのない内輪喧嘩」に引導をわたすのだ。

色どりとしては、天狗党脱落者から、「天下の糸平」が出たり、島崎藤村や樋口一葉の影もさす、といつもながら人々の交流の不思議さは人智を越えている。

六月、縁あって敦賀へ行った。気比の松原ではるか沖の原発を眺め、そのあと松原神社の武田耕雲斎以下四百余名の墓に詣でた。ふつうなら墓とは亡くなってから土葬にされ、あるいは焼いて葬られるのに、ここは斬罪された穴のあとである。つまり首のない死体が実際に埋まっている。背筋が寒くなった。

斬られたのは三百五十三人だが、二列に並んだ墓石には討死、病死者の名も刻まれていた。墓前の松林の中に立った白い木がこれも墓標のように見えたが、よく見ると、遺族や水戸からの墓参団の植樹記念碑なのだった。

「これほど徹底して見当ちがいのエネルギーの浪費、これほど虚しい人間群の血と涙の浪費の例が、未来は知らず、少なくともこれまでの歴史上ほかにあったろうか……」

なんの役にも立たなかった天狗党に、私はあきれた。あきれるということの中に悲しみがあった。

【この書評が収録されている書籍】
幕末の日本を映す鏡
深夜快読
『深夜快読』(筑摩書房)著者:森 まゆみAmazon |honto |その他の書店

【書き手】
森 まゆみ
作家・編集者。1954年東京都文京区生まれ。早稲田大学政経学部卒業。東京大学新聞研究所修了。1984年、地域雑誌『谷中・根津・千駄木』を創刊、2009年の終刊まで編集人を務める。専門は地域史、近代女性史、まちづくり、アーカイブ。98年に『鴎外の坂』で芸術選奨文部大臣新人賞、03年に『「即興詩人」のイタリア』でJTB紀行文学大賞、14年に「青鞜の冒険」で紫式部文学賞を受賞。そのほかサントリー地域文化賞、建築学会賞(文化賞)他。著書に『「谷根千」の冒険』『女三人のシベリア鉄道』『海に沿うて歩く』『おたがいさま』『暗い時代の人々』『子規の音』など多数。

【初出メディア】
文學界 1993~1996年

【書誌情報】
魔群の通過―天狗党叙事詩著者:山田 風太郎
出版社:文藝春秋
装丁:文庫(312ページ)
発売日:1990-04-01
ISBN-10:4167183137
ISBN-13:978-4167183134