そのセリフに違和感を感じる沖縄人も少なくなかったようだ。
4月13日放送のNHK連続テレビ小説「ちむどんどん」第3回では、ヒロインで小学5年生の比嘉暢子(稲垣来泉)が、東京からやってきた中学生の青柳和彦(田中奏生)を山に誘う場面が描かれた。
和彦の父・史彦(戸次重幸)は東京の大学教授で、暢子らが住むやんばる地域の山原村(※架空の村)に研究旅行で訪れていた。史彦には民俗学者としての目的があるほか、太平洋戦争末期には幹部候補として沖縄で従軍。沖縄での研究には格別の想いを抱いているようだ。
だが東京で生まれ育った息子の和彦は、沖縄の生活が水に合わない様子。学校でも他の生徒と交わることなく、アメリカ留学の読本に目を通していた。そんな和彦が語った言葉に、違和感を抱く視聴者もいたという。
「暢子と一緒に山に入った和彦は、靴を脱いで川の中を歩きながら、早く帰りたい様子です。都会暮らしの彼は自然豊かなやんばる地域になじめないようで、暢子に向かって『沖縄についてきて損したぜ』と文句タラタラ。『テレビもない、映画館も遊園地も楽しいこと何もない』と言い放っていました。しかし物語の舞台となる昭和39年(1964年)にはすでに、沖縄でもテレビ放送が行われていたのです」(沖縄マニアのライター)
沖縄では昭和34年(1959年)に初の民放テレビ局として沖縄テレビ放送(OTV)が開局。翌年には琉球放送(RBC)も開局している。また米軍は独自の放送局「AFN」を運用しており、沖縄ではアメリカ8chで放送。
NHKは本土復帰の昭和47年(1972年)に沖縄放送局を開設、それに先立つ昭和36年(1961年)には那覇通信局が開設されていたものの、テレビ局ではなく海外総支局の扱いだった。ともあれ和彦が沖縄に来た時にはすでに、テレビを観ることはできたはずなのに、和彦はなぜ「テレビもない」と文句を言っていたのだろうか。
「青柳家が那覇にいたのであれば、自宅でテレビを観ていたかもしれません。しかし北部のやんばる地域では現在に至るまで、地形の関係でテレビ電波が届かない難視聴地域が少なくないのです。それゆえ昭和39年当時の山原村にテレビを持ち込んでも、おそらく砂嵐しか映らなかったことでしょう。しかも作中でも指摘されていたように、山原村にはやっと電気が通ったばかり。一般家庭では電球で明かりを取るだけで、電化製品はほぼ皆無でした」(前出・ライター)
昭和39年には本土との間にマイクロウェーブ回線が開通し、本土と同じ番組をリアルタイムで見られるようになった。それまでは番組を収録したテープを空輸して放送する「テープネット」という方式が取られていたという。
「和彦は『映画館もない』と言ってましたが、これもやんばる地域だからでしょう。沖縄には戦前から映画館があり、北部の名護にも何館かありました。しかし昭和39年当時はまだ、名護より北では道路がほとんど舗装されていなかったこともあり、山原村に住んでいる和彦にとっては映画館すらない田舎に放りだされた気分だったのではないでしょうか」(前出・ライター)
そんな和彦は果たして、やんばるでの暮らしになじんでいくことができるのか。