7月1日、富士山の山梨県側で「山開き」が行われ、夏山シーズンが始まりました。富士登山といえば、標高3000メートルくらいの山小屋に泊まり、御来光を拝むために山頂を目指すのが一般的です。
今回は、富士山の山小屋の復活を目指して、「はちみつ」を集め始めた男性のお話です。
勝俣俊二さん(画像提供:一般社団法人カノエサル)
それぞれの朝は、それぞれの物語を連れてやってきます。
山梨県富士吉田市にお住まいの勝俣俊二さんは、昭和59年・1984年生まれの41歳。大学進学と共に富士山の麓を離れて、東京や神奈川、中国・上海などで生活を送った後、結婚が一つのきっかけとなり、ふるさと・富士吉田に戻ってきました。
奥様と一緒にゲストハウスを始めると、富士山を目当てに訪れる海外からの観光客で大いに賑わいましたが、コロナ禍で大打撃を受けてしまいました。空いた時間で、どうしたらお客さんが戻ってきてくれるか、仕事仲間と話し合う中で、ただ、登頂を目指すだけの「スポーツ登山」になっている人の多さに心を痛めました。
『世界文化遺産にふさわしい、信仰文化のある、本来の富士山の姿にしたい』
そう思った勝俣さんは、仲間の皆さんと一緒に吉田口登山道の「完全」復活を実現しようと、一般社団法人「カノエサル」という団体を立ち上げました。富士山が生まれたとされる年の干支、「庚申」にあやかったネーミングです。

富士山での養蜂の様子(画像提供:一般社団法人カノエサル)
では、吉田口登山道の「完全復活」とは何か? 今、富士登山の吉田ルートで使われているのは、ほぼ5合目以上です。これは、自動車道路ができ、5合目より下の登山道や山小屋は廃れてしまったためです。同時に吉田のまちを素通りしてしまう登山者も多くなってしまいました。
車で簡単に行ける所へ徒歩で訪れてもらうためには、魅力がなければ始まりません。
『もしかしたら、はちみつを作ることが、登山道復活のシンボルに出来ないだろうか?』
そう思った勝俣さんは、自分で「はちみつ」を作ることを決意しました。

富士山での養蜂の様子(画像提供:一般社団法人カノエサル)
富士山吉田口登山道の完全復活を目指し、はちみつを作ろうとした勝俣さんですが、その前には、富士山の山肌同様、険しい壁が立ちはだかりました。そもそも富士山には、昔から山小屋を営業してきた人たちの組合があるのはもちろん、自治体などの行政の影響力もあり、さらに勝俣さんには養蜂の経験もありませんでした。
まず勝俣さんは、かつて山小屋を営業していた方々のもとを訪ねて、吉田口登山道復活への思いを伝えながら、信頼関係を構築していきます。さらに市役所や県庁をはじめとした行政へのプレゼンを繰り返していくと、あっという間に2年以上の月日が経っていきました。
2024年7月、多くの関係者の協力を得ることに成功し、富士山でのはちみつ作りにこぎつけることができました。ただ、7月は養蜂を始めるには最悪のタイミング。夏の暑さでハチが活動を抑える上、秋の花は少なく、いきなり冬越しをするためです。
そこで勝俣さんは、まずハチの数を増やすことに力を注ぎ、10箱分のミツバチを購入し、富士山で何とか14箱分まで増やして、越冬のために暖かい麓へハチを下ろしてきます。冬を越せそうだと思った矢先、勝俣さんはあまりのショックに膝から崩れ落ちました。

採取されたはちみつと共に富士山の御来光(画像提供:一般社団法人カノエサル)
『ミツバチが……、いない!』
元気よく巣箱の周りを飛んでいたミツバチがぐったりして、死んでしまっていました。
結局、今年に入って再スタートを余儀なくされた勝俣さんのはちみつ作りですが、ここへきて、何とか「蜜」の採取が出来そうなところまでやってきました。採れたはちみつは、7月中に「富士山はちみつ」と銘打って商品化し、
富士山の山小屋やお茶屋での販売を計画しています。そして、その収益は「はちみつ茶屋」復活への資金に充てられていくというわけなんです。
「あと3年くらいではちみつ作りを軌道に乗せて、はちみつ茶屋の復活に繋げたいですね」
「3年」と区切った理由は、昔の「はちみつ茶屋」の経営者で、今、勝俣さんの養蜂の師匠となっている天野憲さんが、80歳の傘寿を迎えられるためです。その頃までに、復活した「はちみつ茶屋」の姿を見せたいと約束しているそうです。
「男と男の約束ですから、必ず実現させてみせますよ!」
そう、勝俣さんは力強く語ってくれました。
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