なぜ人を傷つけてはいけないのかがわからない少年。自傷行為がやめられない少年。

いつも流し台の狭い縁に“止まっている”おじさん。50年以上入院しているおじさん。「うるさいから」と薬を投与されて眠る青年。泥のようなコーヒー。監視される中で浴びるシャワー。葛藤する看護師。
向き合ってくれた主治医。「あなたはありのままでいいんですよ」と語ってきた牧師がありのまま生きられない人たちと過ごした閉鎖病棟での2ヶ月を綴った著書『牧師、閉鎖病棟に入る。』(実業之日本社)が話題の著者で牧師の沼田和也氏が、小さな教会を訪れる「人間関係に疲れ切っている人」に伝える「眠れない日の夜話」。







 先日、礼拝堂に来訪した人とのんびり語りあっていた。悩みごとなど、お話に耳を傾けていた。



 悩みごとの「解決」そのものについては、臨床心理士だったり精神科医だったり、福祉関係だったり、そういう人や機関がすでに関わっている場合が多い。

だから、こうやって誰かの悩みごとに耳を傾けるたびに思う。一介の牧師にすぎないわたしは、精神や心理、その他の問題の素人なのだ。だからよけいなことは言わないほうがいいと。今回も相手のお話を聞かせてもらいながら、つくづくそう感じていた。それなら、わたしのような何事にも素人の者ができることは、なにか。



 悩んでいる人というのは、悩める自己へと集中している。

この悩みを、いったいどうやって解決したらいいのか。解決できないと分かっている悩みであるなら、その「解決できない」という事実をどうやって受け容れたらいいのか。そういうことを、ずっとではないにせよ、考え続けている。考えがどうどう巡りしている。頭の片隅に考えがこびりついて離れない。そう、だから悩める自己へと「集中している」という表現は不正確である。
自己へと集中というよりはむしろ、自己の身の置き所が分からず、気が散ってつらいのだ。据わりの悪い不安定な自己は、なにをやっても集中もできず気も晴れず、喜びを感じないのである。



 そういう自己を抱えた人が教会にやって来て、わたしと話す。わたしは宗教者として「自分を見つめなさい。自分から逃げてはならない」みたいなことを言えばよいのか? とんでもない!よけいなお世話である。本人はすでにながいあいだ自分を見つめてきたのだ、もう十分過ぎるほどに。

それならむしろ、自分から視線を外して一呼吸置き、周りを見渡すきっかけを───そういう気分転換ならぬ視線転換を、わたしは来訪者に促したほうがよい。



 宗教や哲学、思想といった営みを探求する人は、ややもすると「真実の自己」を至上の目標としてしまいがちなのかもしれない。その場限りの気晴らしでごまかさない、真実の自己。宗教の文脈で言うなら、神仏の前で目覚めた自己。そういう凝縮された自分自身を、気晴らしでごまかされた自己よりも上位に置く。それはそれで貴いことだし、それがあってこその宗教だったり哲学だったりもする。







 ただ、探求しすぎて肩が凝り、自身を見つめ続けることに疲れた自己を、自己の外に広がる世界へと拡散させる。それもまた、とても大切なことだと思う。
自分を見つめる、ひたすら内側に向かうベクトルを、他人との雑談という、外側へ向かうベクトルに方向転換する。安全な他人(たち)へと拡散している自己は、リラックスした自己だとわたしは思う。



 



聖書に、イエスのこんな言葉がある。



 



「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」マタイによる福音書 11:28-30 新共同訳



 



 軛と言うのは、家畜を二頭並べて繋ぐためのものである。二頭立ての家畜で農具を牽引して、畑を耕したり荷台を引いたりする。ところで牛であれ驢馬であれ、家畜を二頭立てにするのに、頭を突き合わせて繋ぐ者はいない。二頭立てにする際には二頭横並びに繋ぐのである。これを人間で言うならば、お互いが真っ向から視線をぶつけあう状態ではなく、二人並んで同じ風景を見つめる、といった感じになるだろう。



 コミュニケーションをするにあたってアイコンタクトが大切であるということは、子どもの頃から多くの人が教わることである。わたしが子どもだった頃、学校の先生は子どもと話す際に、俯く子どもに対しては「ちゃんと先生の目を見なさい!」と促したりしたものだ。ビジネスパーソンにもなれば、商談をするのに相手の目をみなければ、商談以前のマナー問題となる。つまり、目を見て話せることが社会性の目安となる。しかし相手の目を見るということは、自分の意志を相手に伝えると同時に、相手の目からのメッセージを受けとることでもある。相手の「目ぢから」が強い場合、それはとてもストレスフルで疲労を伴うことでもあるだろう。



 悩みを抱えて教会にやってくる人には、人間関係に疲れ切っている人も多い。そういう人の顔あるいは目を、初対面のわたしがまじまじと覗き込むように見つめると、それだけで圧迫感を与えてしまうことがある。その人がせっかく何かを話そうと決意して教会にやってきても、わたしの「目ぢから」に圧されて、何も話せなくなることもありうるのだ。







  この人はとても疲れている───そう感じたとき、わたしは相手の顔を見ない。相手が見ているほうをわたしも見ながら「飲み物いれますね。コーヒーかお茶か、どうなさいます?」。それだけ言って、あとは黙って温かい飲み物を器に注ぐ。そのあいだに相手は気持ちが落ち着いて、なにを話そうかと考えをまとめるのである。



 自分を直視する。相手を直視する。たしかに、そういう態度が必要とされる場面がある。しかし、それはさしあたり今すぐ必要なことではない。あなたは疲れて教会にやってきた。だから今は誰の顔色もうかがわなくてもよい。営業をかけにきたわけでもないのだから、誰とも苦労してアイコンタクトをする必要もない。うまく話せないなら、あるいは話すことが思いつかないなら、あなたはただ黙って教会のベンチに座り、ぼんやりと正面の十字架を見つめていればいい。わたしもその横に座って、やはりあなたと同じようにぼんやりと座り、コーヒーを啜るのだ。そういう曖昧な時間の流れのなかで、どちらからともなく、最初の一言が発せられるのである。



 



「いやあ、たいへんですね」



 



ぐるぐる巡る自分自身から、たまには目をそらしたい。悩みと真正面から向きあうことだけが、悩みと向きあう方法のすべてではない。誰かと、職場でも家でもないところで、ほんの少し、のんびりと立ち止まる。そういう時間は大切だと思う。





文:沼田和也