AIが人間を凌駕するという仮説がある。ならば、たとえば「人間の生き延びる力」とは一体どんな能力で構成されているのか。

それをAIが明らかにしようしているというが、「たぶん、正確な答えをAIは出せない」と語るのは、『馬鹿ブス貧乏な私たちを待つろくでもない近未来を迎え撃つために書いたので読んでください』(KKベストセラーズ)を著した藤森かよこ氏だ。「測定可能な、あるいは言語化、概念化できる能力だけが人間のもつ能力ではない。むしろ、無能さが強みに転じる場合もある」と。だからこそ「自分の無能さに絶望する必要はないのだ」と。人間存在の理不尽さと面白さを考察した藤森氏の最新記事を公開。





■幼稚園学芸会「赤頭巾ちゃん」の赤頭巾ちゃん役6名の時代があった

 



 日本経済新聞2021年6月17日夕刊「あすへの話題」の、前公正取引委員会委員長(2013-20)・杉本和行(1950-)の文章が非常に興味深かった。

「競争を否定する教育を受けた人々のその後」について言及されていた。



 かつて、徒競走で順位をつけるのは、走るのが遅い児童を傷つけるという理由から、小学校の運動会の徒競走では、全員が手を繋いで一緒にゴールインするということがあったそうだ。



 私は「全員が手を繋いで一緒にゴールイン」の現場を見たことがないので、教育現場でそういうことが実際に実践されていたかどうかについて断言できない。



 しかし似たようなことは目撃したことがある。妹の1981年生まれの長女(私の姪)が幼稚園の学芸会のお芝居「赤頭巾ちゃん」で主役を演じるというので、私まで応援(?)に駆り出されたときに目撃した。



 幕が上がった舞台には赤頭巾ちゃんの格好をした女児が6人と、赤頭巾ちゃんのお母さん役らしい女児が6人並んでいた。

次の場面では、おばあさんの扮装をした女児が6人ベッドに重なりつつ寝ていた。それぞれの役の台詞は6人いっしょに声をあわせて発声されていた。



 呆れた私が「どういうこと?」と妹に質問したら、「役のつかない子がかわいそうだから、みんなが役につけるようになってる」という答えが返ってきた。その後は狼のお面をつけた男児が6人登場した。木こりの扮装をした男児が6人登場した。芝居の最後には、狭い舞台上に30人がギッシリ並んで挨拶をして大喝采だった。



 別の幼稚園では、桃太郎が大きな大きな桃の中から何人も飛び出してきたそうである。どれだけ大きな桃を幼稚園の先生方は作らねばならなかったのか、その御苦労を想像すると笑えない。





■競争を否定する教育を受けた世代は互恵的ではない?

 



 杉本和行によると、競争を否定して敗者を出さない教育を受けた世代がその後どうなったかという研究によると、彼らや彼女たちは、「利他性が低く、協力に否定的で、互恵的ではなく、やられたらやり返すという考えを持つ傾向が強い」と判明したそうである。



 このような結果になったことについて、杉本はこう推測している。「競争によって個人の能力を磨くインセンティブが与えられる。それが他の人の能力を評価することにつながり、それぞれに異なった能力を持った人たちが力を合わせることの必要性が認識されるようになる」のに、競争を否定する教育を受けた世代には、競争にさらされて自分を知るという貴重な機会が与えられなかった。

だから、この世界は個人の多種多様な才能が集まり、その個人たちが協力し合うことで運営されているという認識を得る機会も持てなかったと。



 確かに私たちは、他人との比較競争によって自分の向き不向きを知る。自分の現実を知る。「僕はやればできるんだ、まだ本気を出していないだけだ」などと自分自身の能力に幻想をいつまでも持っている人間は、競争というものをほんとうには体験しなかったのかもしれない。徹底的に競って負ければ、では他に自分にできることは何か、自分の強みはどこにあるかと真剣に考える。できる人には素直に敬意を払う。



 私の知人の親類には医学部合格に10回以上も挑戦している人がいる。3回受験して不合格ならば、それは資質上適性がないということだと思われるし、医療従事者は医師だけではないのだから、他の道を探るべきだと私は思う。しかし、本人は「努力が足りなかった」と主張するそうだ。その努力できるという資質こそが才能なのだが。







■全員が手を繋いで一緒にゴールイン世代は互恵的ではない説は根拠なし

 



 ところで、杉本の「あすへの話題」には、競争を否定する教育を受けた世代は「利他性が低く、協力に否定的で、互恵的ではなく、やられたらやり返すという考えを持つ傾向が強い」という結果の根拠になる研究なりデータについては紹介されていなかった。私はその根拠を調べてみた。



 その根拠は、大竹文雄(1961-)の『競争社会の歩き方 自分の「強み」を見つけるには』(中公新書、2017)だった。大竹は大阪大学社会経済研究所教授であり、専門は労働経済学と行動経済学だ。



 大竹は、「反競争的な教育を受けた人たちは、利他性が低く、協力に否定的で、互恵的ではないが、やられたらやり返すという価値観をもつ傾向が高く、再分配政策にも否定的な可能性が高い。おそらく教育が意図したことと全く逆の結果になっているのではないだろうか」と書いている(『競争社会の歩き方 自分の「強み」を見つけるには』143頁)。



 大竹のこの指摘は、調査やデータから導き出されたものではなく、大竹の想像によるものであった。



 つまり、「全員が手を繋いで一緒にゴールイン」世代(おそらく現在は40代前半から30代後半)は「利他性が低く、協力に否定的で、互恵的ではないが、やられたらやり返すという価値観をもつ傾向が高い」という説は、根も葉もないことだとわかった。私は安心した。よかった、よかった。





■誰にでも可能性があり能力があるという前提に立つと冷酷になる?

 



 ところで、大竹がそう想像した理由は、杉本の推測とは全く違う。大竹の「競争否定教育を受けた世代は互恵的ではないのではないか」という想像は以下の仮定から生まれた。それを私なりにまとめてみると、こうなる。





ほとんどの人間には等しく能力が備わっている。天性の能力差などはない。もし能力差が著しく見えるとしても、その責任は、適切な環境のもとに、適切な教育を万人に与えることができない世界にある。政治の失敗が原因である。しかし、このような考え方がデフォルトになると、特に目立った環境の劣悪さとか教育程度の低さが認められない人間の不遇は、その人の天性の素質による限界ではなく、本人の怠慢の産物である。自分の怠慢によって不幸や貧困に陥るとしても、それはその人物の自己責任であり自業自得である。なぜ、そのような人々を助ける必要があるのだろうか?





 確かに、文盲などゼロに等しい日本において、インターネットの普及により情報にアクセスすることが自由になっている日本において、「知りませんでした」という言い訳は通用しないだろう。「知ろうと努力しなかったから知らなかったのであって、自分が悪いんでしょ」と思われて同情されないだろう。



 だから、誰にでも可能性があるとか、誰もが平等に才能を開花させることができるという考え方を前提とした競争否定の教育は、能力がないのではなくて、本人の努力不足が原因なのだからということで、能力を示せない人間に対して冷酷になるという大竹の仮説には説得力がある。





■問題は能力というものは超多様で解明されていないということ

 



 競争否定の教育を受けると、「競争によって個人の能力を磨くインセンティブが与えられる。それが他の人の能力を評価することにつながり、それぞれに異なった能力を持った人たちが力を合わせることの必要性が認識されるようになる」のに、競争を否定すると、その機会を得ることが子どもにできなくなるという杉本説には説得力がある。



 一方、大竹の、競争否定の教育の前提は、誰にでも等しく能力があるという性善説ならぬ性有能説であるから、競争否定の教育は、能力を発揮できないのは本人の怠慢が原因であり、そのような怠慢さに同情する必要はないという発想に至ってしまうという説にも説得力がある。



 しかし、私は思う。そもそも競争社会にしろ、競争を否定する社会にしろ、競争というものによって明確になる能力というものには限りがあるのではないかと。測定できる能力だけが人間の能力なのだろうか。まだ言語化されていないという意味で未発見の能力というものはいっぱいあるのではないか。



 知能指数150以上あり、いろいろな技能を習得できて、常に学び続ける向上心があり、容姿端麗で、コミュニケーション能力に秀でている人間が30歳で自殺したら、その人は有能と言えるのだろうか。



 引きこもりで稼ぐ能力はゼロで親の年金で食べていたのではあるが、自宅の家事を引き受け、老いた両親の介護もし、両親の死後は、自ら役所に相談に行き、生活保護を受給できている65歳の男性は無能と言えるのだろうか。



 夕食はデリバリーが多く、洗濯物は溜まり、ついでに部屋も埃がいっぱい積もっているが、家族や親類の嫌味や小言を聞き流し、ご近所の人々の目を気にせず、機嫌はいつも悪くない「家事はできないが離婚されもしない専業主婦」は無能と言えるのだろうか。



 勤務している零細企業の仕事内容は理解していないが、ともかく上司の言うことには忠実に動き、上司が年下になろうが気にせず、功績はなく小さな失敗は数知れずだが、決定権はないので大きな失敗もなく、邪魔にもされないが頼られもせず、嫌われはしないが好かれもせず、ともかく勤務し続けて定年を迎え、慎ましい年金者生活を平和に過ごしている人間は無能と言えるのだろうか。



 勇敢でもなく強靭でもなく、兵器の取り扱い方もよく理解できていないし臆病で運動神経も勘も鈍いのに、部隊でただひとり生き残った兵士は無能と言えるのだろうか。







 能力にはいろいろある。競争して測れない類の能力はいっぱいある。状況が無能さを強みにする場合もある。無能なので誰の脅威にもならないので安全だったということもある。あまりに無知だったので、世の中で何が起きているかわからず、ゆえに一喜一憂せずにすみ、心穏やかに暮らせたということもある。



 競争社会だろうが、競争を否定する社会だろうが、私たちが明確に言語化できる能力だけで生き抜いてゆけるのだろうか。人間の能力とは何かについて説明するのは難しい。生き延び生き切っていく能力は、いったいどんな能力なのか、あなたはすべて列挙できるだろうか。私にはできない。



 この点において、私はAIが人間を凌駕するという仮説を疑う。たとえば、生き延びる力があるという意味で有能な人間の有能さとは、どんな能力で構成されているかをAIが明らかにしようする。しかし、たぶん、正確な答えをAIは出せないと思う。



 なぜならば、AIにデータを提供するのは人間だが、その人間自身が人間存在が生き延びることを可能にする人間の属性の全てを把握できていないのだから。その意味で人間がAIに提供できるデータは穴だらけで頼りにならないのだから。



 たとえ、AIがディープラーニングで自ら学習し人間が用意したデータを必要としなくなっても、「勇敢でもなく強靭でもなく、兵器の取り扱い方もよく理解できていないし臆病で運動神経も勘も鈍いのに、部隊でただひとり生き残った兵士」の能力を明らかにすることはできないと思う。



 そういう点が人間存在の面白いところだ。どんな能力が人間を活かすのか予測がつかないという人間存在のありようの理不尽さは、AIでは相手にできない。





■既成の概念から自分の能力に見切りをつけない

 



 つまり、私が言いたいことは、自分の無能さに絶望する必要などないということだ。私たちは、私たちが意識もしていないし考えたこともないような(私たちに備わっているある種の)能力によって生きてきたし、生き抜いていけるのかもしれないのだから。



 この世界において、一般的に能力とか有能さと呼ばれるものは既成の概念でしかない。あなた自身が自分の無能さの最たるものだと思っているあなたの属性が、あなたの最大の強みであるかもしれない。狭い視野で自分の能力を査定することはない。



さきに例にした10回(10年)以上不合格になっている医学部入試挑戦者も、15回目には合格するかもしれない。立派な医師になるかもしれない。学力以外の能力によって。そんなことはありえないと断言できるだろうか?





文:藤森かよこ