なぜ人を傷つけてはいけないのかがわからない少年。自傷行為がやめられない少年。
今回は、お金の問題について取りあげてみたいと思う。お金と宗教というと、両者は互いにもっとも遠いものであると思われがちである。また、お金と宗教とを結びつけて語ろうとすれば、ただちに「汚らわしい」、「欲にまみれて生臭い」と言われそうだ。
ところが聖書には、お金(というか経済)について、かなり具体的な書き込みがなされているのである。たとえば借金に関して、こんなルールが定められている。
「もし同胞が貧しく、自分で生計を立てることができないときは、寄留者ないし滞在者を助けるようにその人を助け、共に生活できるようにしなさい。 」(レビ記 25:35 新共同訳)
「もし同胞が貧しく、あなたに身売りしたならば、その人をあなたの奴隷として働かせてはならない。 雇い人か滞在者として共に住まわせ、ヨベルの年まであなたのもとで働かせよ。 その時が来れば、その人もその子供も、あなたのもとを離れて、家族のもとに帰り、先祖伝来の所有地の返却を受けることができる。 」(同 25:39-41)
「ヨベルの年」というのは50年に一度やってくる年のことで、ようするに借金がリセットされる年だ。土地もそこに生ずる稔りも、そこで働く人間も、みんなもとは神のもの。だから、神ぬきに人間のあいだだけで貧困の連鎖が生じてはならず、その原因となる負債は50年に一度リセットされなければならないのである。
伝道者として駆け出しの頃、わたしは教会に「お金をください」とやってくる人に対して、内心葛藤を覚えながらも、財布から何枚か手渡していた。しかし頻度が重なってくると、わたし自身が疲弊し始めた。わたし一人が(というわけでもないのだろうが)なぜ、こんなに何万円も、どこの誰かも分からない人たちに、渡し続けなければならないのだろう? 宗教家だったらそうするのが当たり前なのだろうか? わたしだって、助けを求めてくる人を疑いたくはない。だが、この人たちはほんとうに、このわたしが今すぐお金をわたさなければならないほど困窮しているのか? 牧師ならお金をくれるだろうと思って、大げさに言っているんじゃないのか? 自分の身を削って施しを続けることも、これ以上は限界だ──そうしてわたしは、現金の手渡しを一切やめた。それなら最初からそうしておけばよさそうなものだが、その結論に至るまでには何万円か、幾人もの人々に手渡し続けるプロセスが必要だったのだろう。
聖書にあるヨベルの年は、制度としての貧困者救済である。それは法であって個人的善意ではない。もちろん、それを実現するためには個々人の祈りが不可欠だったであろう。だが個々人の力だけではどうにもならないということもまた、古代の人々は分かっていたのだ。だから彼らは社会的に解決しようとした。
「お金がない人」と一口に言っても、教会に尋ねてくる人の場合、複合的な理由で貧困状態に陥っていることがほとんどである。家族が離散していて誰からも支援を受けられなかった人。病身の家族を世話しなければならず、外に出て仕事ができない人。ご本人に心身の疾患や障害があるのだが、社会保障制度をうまく利用できるようになるための知識や機会に恵まれなかった人。明らかな生きづらさを抱えているのだが、それが客観的な障害や疾病であるとは判断されず、福祉の隙間からこぼれ落ちてしまった人...。先にも述べたように、わたしは今、ご本人に直接お金を渡すことをしていない。だがご本人と会える近さであれば、その人の居住地の行政窓口に同行したり、必要に応じて支援機関のNPOを紹介したりしている。
じっさい、お金は大事である。宗教者だからといって「お金に執着するなど愚かなことだ」とはとても言えない。イエス・キリストはたしかに「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」と語った(ルカによる福音書16:13)。だが、そのほんの少し前には、イエスはこうも言っている。
「そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。 」(ルカによる福音書 16:9)
よりにもよって、不正にまみれた富で友だちを作れときたものである。宗教家のイメージからは程遠い、大胆な戦略家イエスの姿が垣間見える。イエスは人々の苦しい現実を無視して、お花畑の天国を語ったのではなかった。じっさい、のちにイエスを裏切ることになる弟子のユダは、弟子集団の会計係をしていたようだ。イエスとて、霞を食って生きていたわけではない。自分の教えを有効に語り伝え、悩み苦しんでいる人、飢えている人、病気の人に適切なケアを行うにあたっては、人々から寄付を募り、そのお金を弟子たちに管理・運用させなければならなかった。その会計管理者がユダだったのである。
また、イエスをめぐってこんな事件も起こった。ある女性が心からの信仰でもって、高級な香油をイエスの頭に注いだのである。そのとき、周りの人々は憤慨した。
わたしも貧困の不安を味わった一人である。10年ほど昔、妻が病に倒れた。わたしは悩んだ末、彼女が回復するまで看護に徹しようと仕事を辞めた。その自覚はなかったが、今で言う介護辞職に近い。ところが現実は甘くなかった。退職金や知人たちからのカンパは、わたしが見積もっていたよりもはるかに早く、あっという間に家賃や光熱水費に消えていった。貯金がいよいよ底をついてきたとき──わたしは公的な窓口に相談するという発想を持たなかった──強い不安のあまり、わたしもまた心身の不調に陥ったのである。わたしは頻繁にパニックの発作を起こし、過呼吸に苦しめられるようになった。その後、焦ったわたしは取り急ぎ郵便局の配達アルバイトに就いたのだが、その仕事がまた、わたしにはどうにも向いていない仕事であった。よく考えもしないで飛びついた仕事だったのだが、辞めてまた別の仕事を探す気力もなかったわたしは、上司に罵倒されながら半年ほど郵便局の仕事を続けた。
今だからこそ思う。お金が無くなることを見越した上で、退職し帰省した時点でまず地元の福祉課などに相談に行き、妻の不調を訴え、適切な福祉に繋がるべきであった。仕事を探すにしても、インターネットでちょっと調べて「よし!郵便局だ!」と即決するのではなく、ちゃんとハローワークに行くべきであった。そして、窓口で自分の生活状況や健康状態を担当者に伝え、妻の世話をしながらでもできる仕事を、たとえ郵便局より収入が低かったとしても、選べばよかったのである。
だが、この「落ち着いて考え、判断すること」こそが、追い詰められた人間には最も難しいことなのだ。お金がなくなってくると気持ちの余裕も失われ、そういう冷静な思考ができなくなってくるのである。そして、このような仕方で追い詰められるのが、わたし一人だけの特殊な例ではなかったということを、わたしはこんにち、貧困に苦しむ人たちの悩みを聞きながら実感している。第三者から見て「お金がないのに、なぜそんな無謀なことを」という「自滅的な」判断へと、じっさい貧困者は流されてしまうことがあるのだ。お金について落ち着いて考えることも、落ち着いて考えていられるだけの、最低限のお金があってこそできる。貧困状態にある人には、その最低限のお金がないのだ。そんな人に「まあ、落ち着きなさい」と言えるだろうか?
お金がなくなってきたら。これはやばいと、ちょっとでも思ったら。「こんなことで相談していいのかな?」の時点で、相談したほうがいい。早ければ早いほどいいから。独りで抱え込むのではなく、福祉に繋がってほしい。今すぐ貧困が解決されるわけではない。けれども、自分の将来を落ち着いて考えるためのアドバイスを、窓口の担当者はしてくれるはずである。たしかに、わたし個人が出会ってきた福祉関係者の印象だけでそのように断言することはできないかもしれない。だが、独りで抱え込むよりはずっとましだと思っている。自分自身が追い詰められた経験からも、また、他人の福祉に同行した経験からも、そう思う。自分を独りで追い詰めるのではなく、焦るときこそ立ちどまって、わたしたちと一緒に考えよう。あなたに手を差し伸べる人は必ずいる。
■生活困窮者自立支援制度の窓口(厚生労働省)
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000073432.html
とくに同ページ内リンクの
https://www.mhlw.go.jp/content/000707280.pdf
文:沼田和也