「かげきしょうじょ‼」(BS11ほか)というアニメがある。原作は斉木久美子による同名の少女マンガ。

宝塚音楽学校を思わせる紅華歌劇音楽学校で葛藤する少女たちの葛藤を描くものだ。



 第五幕(5話)のメインヒロインは、平凡で地味だが歌に秘めた才能を持つ山田彩子だった。ダンス担当の女性教師に「お前、太ってんぞ」「デブは要らない」とダメ出しされたことから、ダイエットを始めた彼女は、自発嘔吐(指吐き)を覚え、5キロ痩せることに成功。しかし、体力が落ち、周囲からも異変を気づかれるようになる。



 そんななか、主人公のひとりでもある奈良田愛から忠告を受ける。愛は国民的アイドルグループ・JPX48を辞めて入学した生徒だ。



「ここ、そろそろ痛いんじゃない? それ、筋肉痛じゃないから。JPXにもそういう子がいたの。胃液が逆流して、食道を灼くから痛いの。食道って体の後ろ側についてるの。背中側に。そんなふうに痩せても綺麗にならない」



 やがて、彩子は咽頭炎を患い、声が出なくなってしまう。

学業成績も振るわないことから、退学して実家に帰ることまで考えるが、そこに音楽担当のおネエ系教師が登場。



「成績はビリになったかもしれないけど、あなたの下には100期生になれなかった1095人もの女の子たちがいるのよ。(略)それにあなた、大切なことを忘れてる。何もない子が紅華に入れっこないのよ」



 などと説得した。おかげで気持ちを切り替えられた彩は、歌の実力を発揮できるようになり、迷走から抜け出すというのが、おおよその内容だ。



 この作品は少女たちのキャラクター設定が絶妙で、夢と現実とが説得力を持って描かれる。

彩子をめぐるエピソードも、女の子集団で発生しやすい問題を上手く取り込んだものだ。



 ただ、そこにはフィクションならではの理想的空気も感じられた。いわゆる「激痩せ」問題はそんなに簡単ではないのでは、という感想もネットでは見受けられ、ファンタジーならではの展開にも思えたのである。







 実際、芸能界では昨年、アイドルグループ・NiziUのミイヒの激痩せが注目された。体調不良による2ヶ月の活動休止を経て、年末の音楽番組で復帰。一時期よりはふっくらした姿に、安心したファンも多かったが、今年の夏には「また痩せたのでは」という声が飛び交った。



 と同時に、それを羨ましがる声も。激痩せのあと、激太りをきたすことが珍しくないため、そうなるよりはマシとか、標準よりも細めを維持できるのは幸せといった感情を抱く人もけっこういるわけだ。



 それこそ、ガリガリがときに褒め言葉にもなるのに対し、デブはまずそうはならない。そこで思い出されるのが、モーニング娘。時代の安倍なつみだ。



 初期モー娘。

のエースだった彼女は「激痩せ」と「激太り」でも注目された。2003年のエッセイ本「ALBUM―1998‐2003」で当時のことを振り返っている。痩せたきっかけは見栄えを気にしてのダイエットだったが、痩せすぎを指摘されても「自分でちゃんと客観視できてないから、ん? 痩せたぁ? って思ってただけなんだけどね」という。



 それに比べ「激太り」期の回想は深刻だ。「寝る前に食べちゃうの。して疲れてるから、そのまま寝ちゃうの。

その繰り返し」という状態だったため、



「衣裳とかもきつくなったりして、雑誌でバッシングされたりして。うわぁっとか、どんどん自信なくなっていくんだけど、もう自分でつくったバリアが最高潮に張りつめられちゃってて、どうにもなんないの。(略)ココロではね。仕事がんばろうって思おうとしてるんだけど、モチベーションがもうどっか曖昧になってて。忙しいと忙しいだけ、なんかやらされてる感みたいな、被害妄想も強くなってくるのね」



 この時期、彼女は新加入の後藤真希と比較されたり、同じ番組から世に出た鈴木あみと対決企画をやらされたりして、多大なストレスや重圧に見舞われていた。もともとの資質に加え、そういう状況が心身のバランスをさらに不安定にしたのだろう。



 とはいえ、現在40歳で妻となり母となった彼女はけっこう安定しているように思える。つまり、激瘦せや激太りをめぐる葛藤は1、2年で解決したのかもしれない。ミイヒにしても、まだ1、2年のことだから、一過性の葛藤で済む可能性もあるわけだ。





 一方、この葛藤を5年10年、あるいはもっと長く抱え続ける人も少なくない。そういう人たちから見れば「かげきしょうじょ‼」の彩子同様、安倍やミイヒもまた「そんなに簡単ではない」と言いたくなるケースなのではないか。



 そんななか、生まれた思想に「プロアナ」というものがある。「プロ(支持)アノレクシア(拒食)」の略で、過食嘔吐なども含めた拒食を生き方のひとつとして肯定し、共存していこうというものだ。また、もうひとつ「プロミア」という思想もあり、こちらは「プロ(支持)ブリミア(過食)」の略。最近流行りのプラスサイズモデルなどはこの思想の体現者なのかもしれない。



 プロアナについては、筆者が2016年の晩夏に上梓した『痩せ姫 生きづらさの果てに』のなかでも紹介した。人と場合によっては、生きづらさの軽減に役立つと考えるからだ。そもそも「痩せ姫」という言葉自体、痩せることによって生きづらさと葛藤するような女性たちへの偏愛をかたちにしたものなので、この本もまたプロアナ的だといえる。



 それから5年、多くの人に読まれ、今なお、読まれ続けている。ありがたく思うとともに、こういう思想の需要についても実感させられてきた。



 また、5年もたてば、亡くなる痩せ姫も、卒業していく痩せ姫もいる。もちろん、葛藤を続ける痩せ姫もいて、人生は本当にさまざまだ。本のなかで「カリスマ痩せ姫」としてとりあげた米国在住のアシュリーも、BMIひとケタとおぼしき極度の痩身のまま、SNSで健在ぶりを示している。



 相変わらずわからないのは、葛藤の時期が一過性で終わる人と長く続く人の違いだろうか。家族関係のゆがみ具合や性的虐待の有無などが関係していそうだが、明確な基準はない。



 一方、わかることもいろいろあって、そのひとつが健康という概念の曖昧さだ。世間における健康と痩せ姫にとっての健康にはズレがある。人はもともと、誰もが何かしら不健康なことをしているものだが、痩せ姫の場合、生きるために不健康なことをするという傾向が特に強いのだ。



 たとえば、自発嘔吐のひとつにチューブ吐きというものがある。本のなかでは、以前より広まりつつあるとしながらも、その危険さを伝えるこんな言葉も紹介した。



「生半可な気持ちでこっちに来ると、死ぬより苦しい地獄がある」「知ってしまった今はやっぱり教えてはいけない気がしてしまう」



 どちらもネットで見つけたものだ。しかし、最近はこういう警告的なメッセージを見かけることが減った。逆に、ますますカジュアルというか、気軽に試したり、会得したりするケースを目撃することが増えたのである。なかには親公認のもと、やっている人もいたりして、限られた少数派のための秘術から、かなりの人が使えるスキルへと変わりつつあるのではという印象さえ受ける。



 これはやはり、痩せることへの憧れや執着というものが、それほどまでに激しく根深いからだろう。人と場合によっては、命と引き換えにしても手に入れたいものなのだ。チューブ吐きの人に限らず、痩せ姫には大なり小なり、そういう必死で切実な気持ちがあるのではないか。





 そこで連想するのが、アンデルセンの童話「人魚姫」である。このヒロインは人間への憧れや執着のために、声と人魚としての幸せを失い、そのかわり、歩くたびに痛む脚と王子に愛されなければ死ぬという運命を得る。不幸にも思える選択だが、自らが決めた生き方に殉じたからこそ、彼女の物語は哀しいほどの美しさを持つにいたった。



 痩せ姫もまた、そこに通じる存在かもしれない。その哀しくも美しい葛藤を伝えたいという想いは、5年前も今も、いや、ますます高まるばかりだ。



 もちろん、これは世の中全体に共有されるものでもないだろう。ただ、完全に無視されることもないはずだ。健康でありたいと願いつつ、不健康にも惹きつけられるのが人間だからである。



 そのアンビバレントな本質を象徴する痩せ姫は、誰よりも人間らしい葛藤を生きている。





文:宝泉 薫(作家・芸能評論家)