今年、茅ヶ崎市立香川小学校は「通知表廃止」から3回目の春を迎え、その評価が毎日新聞の記事として掲載された。「通知表の廃止」は公立小としては極めて異例の取り組み。

それが一定の評価を得られたという校長や教師の発言が載っていた。・・・ちょっと待てよ。それってそんな短期間で本当に評価できることなのか?



 「学校の当たり前をやめる」。そんなラディカルな教育改革を牽引するような主張が、昨今教育現場で蔓延っている。「宿題廃止」「定期テスト廃止」「固定担任制廃止」等々。従来から学校教育で「当たり前」とされてきた慣例や教育システムそのものを失くしてしまおうという主張だ。

その火付け役となったのが工藤勇一氏。『学校の「当たり前」をやめた。』がベストセラーとなり今も講演会やメディアに引っ張りだこだという。教育改革の旗手として工藤氏をもてはやす著名人も数知れず・・・。



 しかし、実際、学校現場ではこの改革ムードはどう受け止められているのか? そもそもいま学校の教育現場はどうなっているのか?



 小学校教師歴40年。神奈川県茅ヶ崎の名物教師として、子どもたちの身体と心の成長を見つめている西岡正樹氏は、この「学校の当たり前を蔑ろにする」風潮に強い違和感を覚えると語る。

  



 現在日本の教育現場を混乱に陥れているものはいったい何なのか? まずはその現状認識に向き合うことから教育者は始めていくべきではないのか?



 



 



■挨拶や返事が「当たり前」である理由

 



 「先生、おはようございます。みんな、おはよう」



 「おはようございます」



 「セナ、おはよう」



 大きな声で挨拶をしながら教室に入ってくるセナ、教室でセナを向かえる子どもたちの挨拶の声。気持ちのいい朝の始まりです。私の身体の調子が少々悪い時、また気分が乗らない時でも、朝の挨拶を交わしている子どもたちを見ていると、私の気持ちのスイッチが入ります。



 このような光景は、私のクラスでは日常ですが、これが日本の小中学校のスタンダードかというと、そうではない。少なくとも昨年度まで勤めていた小学校では、このような光景はほとんど見られなかったし、担任していた自分のクラスも、子どもたちが「挨拶」を意識し始める前は、挨拶しながら教室に入ってくる子どもは、ほとんどいませんでした。



 大人社会も同じような状況ではないでしょうか。朝の職員室の光景は耳を澄まさなければ挨拶の声は聞こえてきません(何人かの例外はありますが)。流石に、まったく挨拶をしないで職員室に入ってくるような、そんな常識はずれの教職員はいませんが、その声はあいさつと言えるものではありません。きっとそれは、学校に限られたことではなく、家庭や会社そして地域においても同じような状況だろうと推測されます。



 それでも、「挨拶をすることは当たり前だと思いますか」と問われれば、ほとんどの人たちは「当たり前だ」と答えるでしょう。その答えと生活実態には大きな隔たりがあるのですが、それも含め現状がそうなのです。



 



 私が子どもの時に、よく言われた言葉があります。



 「先生の話をちゃんと聞きなさい」「分かったらちゃんと返事しなさい」



 ここでも問いたい。さて、日本の社会において、「返事をすること」が当たり前だと思っている人は、どれくらいいるでしょう。



 学校の状況をお話しすると、授業中に指名されて「はい」と返事をする子どもは極めて少ないのが現状です。まあ、社会の大人たちの振る舞いを見ていれば、教室での子どもたちの振舞いも十分予想はつきますが。



 私は、定期的に病院へ行っているのですが、受付で名前を呼ばれた時に返事をする人は、あきれるほど少ない。

それも、返事をするのは高齢者ばかりです。しかし、そんな返事をしない人たちも、「返事って必要ですか」とあらためて訊かれたら、きっと、多くの人は「必要だ」と答えるにちがいありません。



 古今東西、世界中、長い歴史の中でも、「挨拶」や「返事」は人々の営みの中で存在し続けてきました。「挨拶」や「返事」は、国や時代を越えて存在し続けてきているのです。理由は明確です。多くの人々が共に生きていくためには「必要なもの」だからです。

また、その必要さは、「当たり前」の域にあるといってもいいかもしれません。



 



 個人的な話をすれば、私が「挨拶」や「返事」の存在理由を痛感したのは、北米、西ヨーロッパをバイクで一人旅した時でした。



 旅を始めた当初、私は異文化の中にいる不安、言葉が通じない心細さ、そして、度々起こるイレギュラーな出来事の中で、常にネガティブな思いに苛まれていました。そんな時に交わす何気ない「挨拶」や、道に迷った時の「エックスキューズ ミー」という私の問いかけに対する「イエス」という「返事」に、私はどれほど救われたことか。目が合えば必ず交わす「挨拶」や、私の顔を見ながら返される「返事」(相手に向けたオープンな気持ち)がなんと嬉しかったことか。異国の人たちの「挨拶」や「返事」一つひとつから、私は一人で旅をしているけれども孤独ではないという実感を得ることができたのです。



 そして、異国を旅することで、私は、「挨拶」や「返事」が自分を安心させてくれるものだということを知りました。「挨拶」や「返事」一つで、こんなにも人の気持ちが変わるのかと驚き、そして、人々の営みの中で「挨拶」や「返事」が存在する理由が、ここにあるのだということを私は痛感したのです。



 



■「改革」は「当たり前」を蔑ろにする

 



 翻って、日本社会の状況を見てみると、学校に限らずいたるところで、「挨拶」や「返事」が疎まれ、失われている状況に気がつきます。そして、「日本人は日常的に人との繋がりを感じられる瞬間が極めて少ないのではないか」という思いに至りました。私は、長い教師生活(公立小学校40年)や世界中を旅した(バイクで世界16万キロを旅する)体験を通して「人と人が繋がることで、人は安心しより意欲的に学び、働くことができる」と思っているし、また、「さらに多くの人と繋がることで多くの刺激を受け、個の能力はさらに大きな力を発揮する」という強い思いを持っていますが、日本の現状は自分の思いとは逆の方向に進んでいるように思えてなりません。それと同時に



 「どうして人々(子どもたち)は繋がろうとしないのか」



 「どうして共に生きていくために必要な『当たり前』は、現実生活の中で失われようとしているのか」



という大きな課題が見えてきました。



 



 先日、NHKの番組「ヒューマンエイジ」を観ました。その中で、ずっと考えていた私の疑問に繋がるような事が語られていたのです。



 人(ホモ=サピエンス)は多くの人と繋がることで生き続けてきたし、多くの人と繋がることで発展してきた。我々ホモ=サピエンスが生き延びることができて、同時代に生きていたネアンデルタール人が絶滅したのは、コミュニケーション能力の違いだったという説がある。ネアンデルタール人は、ほぼ家族単位の小さな集団しか作れなかったが、ホモ=サピエンスは家族を超えたより大きな集団を作ることができた。その集団の大きさでできあがる「集団脳」の力に大きな差が生じたために、「集団脳」が小さいネアンデルタール人は様々な困難を克服することができず、生き抜くことができなかった、というのです。



 「一人の天才や一人の偉大な指導者がいたから、ホモ=サピエンスは生き延びたのではなく、大きな集団をつくることができたから生き延びられた」



という話を聞いた時、クラスの子どもたちの25個の顔が浮かんできました。



 「人は一人では生きていけないんだよ。だから・・・」



 私は、担任している子どもたちに、ことあるごとに伝えてきました。



 地域や家庭の教育力が弱くなっている今、「人と人が繋がる大切さ」を学べる場所は学校です。「一人ひとりが自分の事は自分でする力を養う」「多様な人々が集団を作り、その中で繋がりながらより広く深く学んでいく」のが学校だと、私は思っています。



 そのためには、人と人が共に生き、共に学ぶための『当たり前』をもっと意識しなければならないのですが、現実的には、その「当たり前」は蔑ろにされ、失われているのです。また、むやみやたらに使われる、現実認識を持たない「改革」という言葉によって、「当たり前」は、さらに失われようとしているように思えてなりません。



「学校の『当たり前』」を軽視する教育改革への違和感【西岡正樹...の画像はこちら >>



■工藤勇一氏がやめた「学校の当たり前」とは

 



 工藤勇一氏の『学校の「当たり前」をやめました。生徒も教師も変わる!公立名門中学校の改革』という本が話題になりました。「当たり前をやめた」という言葉が気になったので読んでみました。しかし、読み始めるや、私のアンテナにひっかかる言葉や文が度々出てくるので、なかなか読み進める事ができませんでした。本文に入る前の「はじめに」から私の中で多くの?マークが点滅し始めたのです。



  工藤氏の著書『学校の「当たり前」をやめた。』の「はじめに」に、次のような文章が書かれていました。



 



 



前略



 



今、日本の学校で行なわれている教育活動の多くは、学校が担うべき、「本来の目的」を見失っているように感じます。加えて、多くの教育関係者が気付いていないことに驚きます。



(中略)



学校は何のためにあるのかー。



学校は子どもたちが「社会の中でよりよく生きていけるようにする」ためにあると私は考えます。



そのためには、子どもたちには「自ら考え、自ら判断し、自ら決定し、自ら行動する資質」すなわち「自律」する力を身につけさせていく必要があります。



社会がますます目まぐるしく変化する今だからこそ、私はこの「教育の原点」に立ち返らないといけないと考えています。



 



 



 まず、私は「社会の中でよりよく生きていけるようにする」という目的からひっかかりました。特に「よりよく生きる」の「よりよく」って何? イメージできません。一人ひとりに関わる「よりよく」は一人ひとり違いますから。だから、学校では「よりよく生きていけるように学ぶ」のではなく、「自分の事は自分でできるように学ぶ」のだ、と思っています。



 公立の小中学校は、一人ひとりが自分の興味関心を持った分野で、「自分らしく」生きていかれるように、その土台を築く場所です。確かに学校は、子どもたちの「生きていく力」を養う所です。そのために、「自ら考え、自ら判断し、自ら決定し、自ら行動する」=「自律する力」を身につけさせるのですが、それだけで「生きていく力」は養われていくのか、というと、そうではないでしょう。



 前述したように「(身体的にも、情緒的にも)人は一人では生きていけない」のです。だから、人は「生きていくために、どのようにしたら他者とつながり協働できるのか」を子どもの時から学び、体験を繰り返さなくてはなりません。ということは、学校は自立(律)心を育てるだけではなく、公共心も含め、「どのようにして自分と他者をうまく繋げいくのか」という力を身に付けなくてはならないのです。







■「通知表を廃止」したある公立小学校に対する違和感

 



 今年4月10日、茅ヶ崎市立香川小学校が「通知表を廃止」して3回目の春を迎えたという記事が、毎日新聞に掲載されていました。私の目に映った「廃止」という言葉には、違和感がべっとりと付いていました。ここでも「当たり前」が蔑ろにされている実態が見え隠れしています。また、この記事の大見出しにも、違和感がべっとりと付いていました。それは「人と比べなくていい」というものです。もともと「通知表は人と比べるためのものではない」からです。



 通知表を廃止するということは、「定期的に評価はしませんが、何らかの方法で子どもの育ちを日常的に伝えます」という宣言でもあります。この方法を確実に実施することになれば、教師の日常的な負担がより大きくなることが予想されますが、それだけのことをやる覚悟を香川小学校の教師たちは持っているのだろうか。他人事ながら心配になります。



 前述したように、「通知表」は「人と比べるための成績表」ではありません。ましてや、通知表はテストの点数がそのまま反映しているのではなく、教師によって表された「評定」や「所見」によって、子ども自身が自分の今を振り返り、次へ向かってより意欲的になるように作られるものなのです。



 その通知表が、相対的な評価であればA,B,Cや1,2,3、などの評定があり、相対的絶対評価であれば、△、○、◎などがあります。しかしそれは、目標到達度の違いを明確にしているにすぎません。また、所見は、教師が子ども一人ひとりを見取り、言葉によって子どもの現状を伝えるものです。その言葉は、子どもたちに大きな刺激を与え、やる気を出させるものでなければなりません。また、教師側から見れば、教師の見取りがきちんとできているかを試される場でもあるのです。



 このような二つの要素があるにも関わらず、「通知表」を廃止するという選択は、私には考えられません。子どもたちは、教師や親の思いにとても忠実です。親や教師が「通知表」に拘っていたら、子どもも拘るだろうし、親や教師が拘っていなければ、「通知表」に大きな拘りを持ちません。子どもたちが「通知表」に対してどのような思いを持っているのかは、教師や保護者次第なのです。評定ばかりに拘っている子どもがいるのであれば、教師や保護者が「通知表の存在意義」をきちんと伝えるべきです。



 教師は子どもの成長を記録する責任があります。そして、その記録を様々な形(学校独自)で子どもや保護者に伝えなければならないのです。それは「当たり前」のことです。



 そんな「学校の当たり前」を軽視する教育者の考えや世間の風潮こそ、今まさに学校現場を混乱に陥れているのではないでしょうか。



 



■「公共心」「他者意識」を育てるために必要なこと

 



 私が常々思っていることは、「自立(律)心」や「公共心」、「他者意識」を育てるために、まずやるべきことは、システムや方法を変える「改革」ではなくて「当たり前を取り戻す」ことだということです。



 「自ら考え」「自ら判断し」「自ら行動する」前にやらなければいけないことがある。それは、「人」や「もの」そして、「出来事」(対象)にきちんと向かい合い、対象を「ちゃんと見る、ちゃんと聴(聞)く、ちゃんと読む」ことなのです(子どもだけではなく、教師も保護者も同じです)。つまり、他者をしっかりと感じることなのです。



 (「ちゃんと」って何?という思いが出てくると思いますが)私の定義する「ちゃんと」というのは、「見たり、聴いたり、読んだりしたことを自分の身体の中に落とし込み、その中から言葉がでてくること」です。しかし、自分の身体に落とし込み、頭の中に浮かんできた言葉は、必ずしも口に出して表現できるものばかりではありません。思いとしてあるが、まだ外言として表現できないまま、内言として自分の中に残り続けるものもあります。繰り返しますが、私は、自ら考え、自ら判断し、自ら行動するためには、目の前にある「対象」を、自分の中に「ちゃんと」取り込む作業が、まず必要だと考えています。



 人と人が繋がるためにも同じことが言えます。「ちゃんと見る、ちゃんと聴く、ちゃんと読む」ことで対象(他者)を自分の中に取り込み、自分が共感できるところを見つけることで、お互いに繋がっていくのです。その行動が「あいまい」であればあるほど、行動として表れてくるものも、「あいまい」になってしまうことは、当然予想できます。



 担任していた子どもたちを見ていると、「ちゃんと」を理解するまで曖昧さばかりが目立ちました。ちゃんと見ているようで見ていないし、ちゃんと聴いているようで聴いていません。ましてや読むとなると、何をかいわんや、です。そのような状態で



 「先生の話を聞いて、どう思いますか」



と問いかけても、出てくる言葉はありません。言葉が口から出てきたとしても、自分の思いや考えが十分に表れていない単語か1、2文です。



 学校も含め、社会は、人として生きていくために忘れてはいけないこと、「当たり前」にやらなくてはいけないことを蔑ろにしているように思います。学校で起きている様々な課題の多くは、当事者意識(自分の事は自分でする)と関係性(人は一人では生きていけない)が失われていることによってもたらされているものであり、また、生きていくために必要なこと、当たり前にやらなくてはいけないことをやらなくなったことで拍車がかかっているのです。



 変わることを恐れてはいけないし、成長発展するためには変わるべきものは、変わらなければなりません。しかし、まず「変化ありき」=「改革」は違うのではないでしょうか。



 まずは、人が生きていくために大切にしなければならない「当たり前」を取り戻すことです。



 



文:西岡正樹





「学校の『当たり前』」を軽視する教育改革への違和感【西岡正樹】



《プロフィール》



西岡正樹(にしおか・まさき)

小学校教諭歴40年の名物教師。
1976年立教大学卒、1977年玉川大学通信教育過程修了。1977年より2001年3月まで24年間、茅ヶ崎市内の小学校に教諭として勤務。退職後、2001年から世界バイク旅を始める。現在まで、世界65カ国約16万km走破。また、2022年3月まで国内滞在時、臨時教員として茅ヶ崎市内公立小学校に勤務する。



「旅を終えるといつも感じることは、自分がいかに逞しくないか、ということ。そして、いかに日常が大切か、ということだ。旅は教師としての自分も成長させていることを、実践を通して感じている」。



著書に『世界は僕の教室』(ノベル倶楽部)がある。