「日本人の体質」を科学的に説き、「正しい健康法」を提唱している奥田昌子医師。彼女の著書は刊行されるや常にベストセラーとなり、いま最も注目されている内科医にして作家である。
「日本人はこれまで一体どんな病気になり、何を食べてきたか」「長寿を実現するにはどんな食事が大事なのか」日本人誕生から今日までの「食と生活」の歴史を振り返り、日本人に合った正しい健康食の奥義を解き明かす、著者渾身の大河連載がスタート! 日本人を長寿にした、壮大な「食と健康」の大河ロマンをご堪能あれ。■腹が減っては戦ができぬ、一日三食の広がり

 鎌倉時代から室町時代にかけて、日本人の食生活にいくつかの変化が起こりました。その一つが、一日三食の習慣が徐々に広がったことです。

 古代の日本では夜明け前に起きて仕事をし、気温が上がる10時くらいに家に戻って、そこで朝と昼をかねた食事をするのが習わしでした。奈良時代の役人の勤務時間は早朝から昼ごろまでだったそうです。宴会は午後2時に始まって日没まで。

上流階級も同様で、鎌倉時代後期の後醍醐天皇は朝食を正午ごろ、夕食を夕方4時ごろ召し上がっていました。そして暗くなると誰もが床についたのです。

 日本はとくに夏が蒸し暑いので、涼しいうちに仕事を片付けるのは合理的といえます。また、就寝が遅くなりがちな現代よりも、日の出、日没を生活の目安とした古代から中世の暮らしのほうが、体本来のリズムには合っていたでしょう。

 鎌倉武士も一日二食でしたが、激しい戦いが続くときなどは軽い食事を持ち歩き、おなかがすくと食べていました。このとき重宝したのが、おなじみのおにぎりです。

 平安時代に北九州の防衛にあたった防人は、蒸した餅米を固めたものを携帯したようです。鎌倉時代初期の1221年に発生した承久の乱の際には、鎌倉幕府が武士に梅干し入りのおにぎりを配ったといわれています。おにぎりは竹の皮や木の葉に包んで持ち歩きました。うるち米を使う現代風のおにぎりが登場するのは鎌倉時代末期のことです。

 安土桃山時代になると菜飯のおにぎりが主流となり、おかずとして梅干し、味噌、胡麻、鰹節、干し魚などを戦場に持参しました。おいしそうですね。

戦わないうちから休憩が待ち遠しくなってしまいそうです。

 鎌倉時代に入るころから、留学帰りの僧らが一日三食食べるようになりました。中国大陸では三食食べる伝統があったからです。僧侶らの影響で、公家にも三食食べる習慣が少しずつ広がりました。公家とは朝廷に仕える貴族のことで、このころから武家に対して公家と呼ばれるようになっていました。けれども、この習慣が庶民にまで浸透するのは元禄時代、西暦1700年ごろとされています。

 そのきっかけの一つが照明用の菜種油の普及です。夜遅くまで活動できるようになったことで夕食の時間が後ろにずれて、朝食と夕食のあいだに昼食を食べるようになったと考えられています。

■和食の基礎が定まった室町時代

 形式にこだわり、豪華ではあっても不健康な食生活を送りがちだった平安貴族と違って、武家社会では、食べたら食べただけエネルギーに変わる健康的な食事が好まれました。しっかり戦うためだけでなく、武士の多くが、戦乱がおさまると武器を農具に持ちかえて耕作にいそしむ農民だったからです。田畑をたがやし、堆肥(たいひ)を運び、重い農具を使いこなすには、力の出るものを食べる必要がありました。

 獣肉も食べていましたが、殺生を禁じた仏教の教えに加えて、肉食を心身のけがれとする神道にもとづく考えかたも影響し、農民を含む庶民も肉食は好ましくないと感じ始めていました。

あからさまに狩りをすることははばかられたため、健康のために、薬として獣肉を食べるという名目で狩猟を行うようになりました。

 獲物は猪、鹿、熊、狸、ウサギ、鳥はヤマドリ、ツグミ、ウズラ、キジなどです。しかし室町時代に入ると、これすら頻繁には実施されなくなったといわれています。

 代わって主流になったのが、主食が米で、おかずが野菜と魚という、現代の私たちがイメージする和食です。調理技術の発達により、おなじみの煮物、蒸し物、焼き物、汁物、漬け物が登場しました。

 また、室町時代になると米の収穫量が上がり、麦や雑穀で補わなくても米を十分まかなえるようになりました。

精米はまだ人が杵でつく方法だったため、白米といっても現在の5分づきくらいだったでしょう。平安時代にはおこわのように蒸していたのを、炊くようになるのもこのころです。

 大豆は弥生時代に稲作とともに大陸から伝わりました。日本で栽培が盛んになるのは鎌倉時代以降のことです。表向きとはいえ肉食が禁止されたため、蛋白質を他の食品から摂取する必要がありました。「畑の肉」といわれるとおり、大豆は蛋白質が豊富で、全体の約35パーセントが蛋白質です。大豆を原料とする味噌、醤油、豆腐、納豆、おから、ゆば、あげなどの大豆製品も、室町時代以降、次第に浸透してゆきました。

 大陸との貿易が活発になったことで輸入が増えたのが砂糖です。茶の湯の流行とともにさまざまな和菓子が作られました。1467年、銀閣寺建立で知られる8代将軍足利義政の後継をめぐって応仁の乱が起こります。義政は騒動をよそに京都東山に移り住み、水墨画、茶の湯、連歌、能楽、生け花などに明け暮れました。東山文化です。義政は客人があると砂糖羊羹でもてなし、豊かな甘みを楽しんだといわれています。

■現代に近い鮓(すし)の誕生

 この当時、味醂はまだありませんでしたが、塩、酢、酒、そして醤油に近いものも普及し、酒粕に魚や野菜を漬け込む粕漬けも生まれていました。役者が揃うなか、登場したのが現代の寿司に近い「すし」で、当時は「鮓」の字を当てていたようです。鮓のルーツは、紀元前に東南アジアの水田地帯で作られた魚の保存食という説が有力です。これが中国大陸をへて日本に伝わったと考えられ、奈良時代の文献に鮓に関する記述が出てきます。

 しかし、このころの鮓は、魚に米飯と塩を混ぜて数ヵ月から数年かけて発酵させたもので、いわば魚の漬けものでした。蒸し暑い日本では、食品を保存するために、古代から塩漬けが広く行われていたのです。しかし、この作りかたでは、ご飯はどろどろになるので食べられません。

 これが室町時代になると、もっと速く作りたい、どうせならご飯も食べたいということで、半月から一ヵ月程度で発酵を切り上げる手法が開発されました。ご飯にほどよい酸味がついて、おいしく食べられたようです。こうして鮓は魚料理から、ご飯ものに大きな転換をとげ、庶民にも普及しました。ただし、形式を尊ぶ宮中では、昔ながらのじっくり漬け込む鮓を食べていました。何ごとにもこだわりがあったのですね。

 この時代には、ワサビ、生姜もすでに使われていました。室町時代初期に書かれた『庭訓往来(ていきんおうらい)』は、当時の武家社会の年中行事にからめて、武家の生活に必要な知識をまとめた書物です。ここに調味料として、ワサビ、辛子、生姜、胡椒が出てきます。

(連載第7回へつづく)