江戸時代後期から幕末にかけ、日本国内では外国船の襲来に備え、「台場」と称される沿岸砲台が築かれた。
 その数は全国で1000カ所にも及んだが、圧倒的多数は一度も実戦を経験することなく、明治維新後には廃用となっている。

その例外が薩英戦争で使用された薩摩藩の台場と、攘夷戦の舞台となった長州藩の台場である。

攘夷戦の舞台となった長州藩台場の今昔の画像はこちら >>
薩摩藩祇園洲台場

 土塁と石垣(写真左下から中央の弧状の隆起)が今日に伝えられる。
 薩英戦争で使用された薩摩藩の台場のうち、祇園洲台場は良好な状態で保存され、天保山台場は部分的に遺構が伝わる。その一方、攘夷戦で利用された下関周辺の長州藩の台場についてはそのすべてが海岸線の埋め立てなどにより、台場としての姿は失われた。激戦が展開された壇ノ浦台場には、その当時の大砲が復元されている。
 どうも、日本の観光行政では、「城には天守閣、台場には大砲」という大原則があるらしい。

城には天守閣という大原則についてはようやく見直されつつある一方、台場には大砲という大原則は持続している。

攘夷戦の舞台となった長州藩台場の今昔
長州藩壇ノ浦台場 観光用に設置された大砲の原寸大模型

 台場には、艦船から発射される砲弾に対処する土塁が築かれており、壇ノ浦台場にも存在していたはずなのだが、復元された大砲の周辺には土塁は存在しない。これでは、石垣という基礎の土台なしに天守を復元するようなものであり、幕末の台場とすれば、違和感満杯の現状だといえよう。
 下関周辺の台場の遺構は失われた一方、長大な海岸線を持つ長州藩では大小さまざまなタイプの台場が今日に伝えられる。10年ほど前に探査した成果については、回を改めて紹介したい。また、状況が許せば、今年の秋から冬にかけ、まだ見ぬ長州藩の台場を攻めてみたいと思う。