もてはやされる三王朝交替説

       

 まず、三世紀初頭、崇神王朝が、既存の司祭的な王をいただくヤマトの「先王朝」を継承した。これが「古王朝」で、呪術に支えられた王朝だった。先王朝は、仲哀(ちゅうあい)天皇の時代に滅びる。仲哀天皇は九州征討を敢行するも、「魏志倭人伝」に描かれた狗奴(くな)国の末裔に敗れた。狗奴国は熊襲(くまそ)たちの国で、日向(ひむか)に4世紀ごろ国を造り、4世紀後半には東に移り、ヤマトを征服し、第18代仁徳(にんとく)天皇が「中王朝」をうち立てた(水野祐は第15代応神天皇と仁徳天皇を同一と考えている)。これが「中王朝」で、特徴は、河内に巨大古墳を造営したことだという。


 そして、最後に、大伴氏が6世紀初頭に越(北陸)から継体天皇を連れてきて擁立した。これが「新王朝」で、今日につづく王家が誕生したというのだ。
 三王朝交替説をわざわざ説明したのは、三王朝交替説が、重要視されたこと、中王朝が河内王朝とも呼ばれ、「河内王朝論」が、大いに議論されたからだ。
 多くの学者は、崇神天皇、応神天皇、継体天皇の三つの政権が登場したことに関しては、認め合っている。ただ、細かい部分になると、意見を異にする。そして、おおよそ、四つの考えに収斂された。

1.    騎馬民族か九州の勢力がヤマトに移動した(江上波夫、井上光貞)
2.    征服されたわけではなく、河内土着の勢力が成長し、王朝を開いた(岡田精司、直木孝次郎)
3.    三輪王朝が衰退し、その後河内の勢力が王朝を建てた(上田正昭)
4.    ヤマトと河内の有力部族が王朝を築き、権力の中心地が河内に移動した(笠井敏光、白石太一郎)

 どの説も、纒向に興ったヤマト黎明期の王朝は衰退し、あるいは滅ぼされたという考えで固まったのだ。
 

『地形で読み解く古代史』より構成)

明日は瀬戸内海と河内王朝の謎シリーズ⑥「地理と地形」で推理すれば、王朝交替説は、否定できる!?」です。

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2017年4月22日のライフスタイル記事

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