独裁者ヒトラーに対し、密かに反旗を翻したドイツ貴族将校団の有志たち。いかにして1944年7月のヒトラー暗殺未遂事件へと繋がったのか? 「ワルキューレ」作戦の舞台裏を描く、オリジナル連載の第4回です。
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イギリス情報部用特殊爆弾「クラム」によって爆破された「ヴォルフスシャンツェ」の会議室内部の様子。ヒトラーはごく軽症で済んだ。1944年7月20日の出来事 

 1944年7月20日、シュタウフェンベルクは同志の副官ヴェルナー・フォン・ヘフテン中尉と共にユンカースJu52特別便で「ヴォルフスシャンツェ」を訪れた。いよいよヒトラー暗殺が決行されるのだ。暑いため会議は地下会議室ではなく地上の木造バラックで行われることになり、シュタウフェンベルクは控室で「クラム」に10分遅延の時限信管を装着した。だが、それまで2発一組で用いていたものが今回はなぜか1発の使用とされ、これが運命を決することになる。

 シュタウフェンベルクは12時半頃に会議室に入った。陸軍参謀本部作戦課長アドルフ・ホイジンガー中将を挟んでヒトラーの右側に立った彼は、地図テーブルの下に「クラム」入り書類鞄をできるだけヒトラーに近づけて置くと、急用の電話にかこつけて退出。脱出用の自動車を確保したヘフテンとシュタウフェンベルクが外で落ち合った直後、オストプロイセンの鬱蒼たる森の中に鈍い爆発音が轟いた。

 同志の総司令部通信部長フリッツ・エーリヒ・フェルギーベル大将は、反ヒトラー派がクーデターを有利に進められるように「ヴォルフスシャンツェ」と外界との通信の遮断に着手。しかし予備の通信回線や直通回線があるので完全な通信遮断は不可能だった。

 「ワルキューレ」の発動は3時間遅れ…

 一方、シュタウフェンベルクはヒトラーの生死を直接確認できないぐらい大慌てで現場を離れた。

ゲートが封鎖されて足止めを食えば、ベントラー街に戻って蜂起を指揮できなくなるからだ。二人は封鎖前に二つのゲートをすり抜けると空路ベルリンに帰着。だがすでにベルリンにはフェルギーベルによってヒトラー生存の第一報が伝えられていた。彼はまだ混乱が続いているうちに「ワルキューレ」を発動すれば、ヒトラーが生存していても勢いで軍の蜂起が成功するかも知れないと考えた。しかしオルブリヒトらは躊躇し、シュタウフェンベルクの帰りを待つことになった。

 他に生じたゴタゴタなども影響して貴重な時間が失われ、「ワルキューレ」の発動は3時間も遅れた。

結局、この遅れや親ヒトラー派の素早い動きにより、シュタウフェンベルクら反ヒトラー派はその日の深夜に拘束されてしまった。そしてクーデター成功後に新国家元首に就任する予定だったベックは拳銃自殺を認められたが、死に切れずに「介錯」された。

 一方、シュタウフェンベルク、ヘフテン、オルブリヒト、クヴィルンハイムの4人はベントラー街の中庭で銃殺された。まずオルブリヒトが射殺され、次がシュタウフェンベルクだったが、銃殺隊の発砲寸前にヘフテンが彼に覆い被さって弾丸よけとなり先に死んだ。
「神聖なるドイツよ、不滅なれ!」
 撃たれる直前、シュタウフェンベルクはこう叫んだと伝えられる。そして最後にクヴィルンハイムが射殺された。

 かくてヒトラー暗殺の「7月20日」事件は未遂に終わった。爆弾入り書類鞄の置き場所があとからずらされたことに加えて、地図テーブルが分厚かったおかげでヒトラーは爆死を免れた。だが、もし「クラム」が2発使用されていたら、結果は違ったかも知れない。事件後のヒトラーの報復はすさまじく、逮捕者約1500名、死刑約200名が生じたが、冤罪で処罰された者も多かった。同様の事件の再発を防ぐべく「思い上がった貴族(将校団)」を再起不能とし、ヒトラーの支配体制をより強固にするためである。その影響で、国民的英雄のロンメル元帥や、理知的なクルーゲ元帥らも自殺を強いられた。