日本郵政は財務省出身の坂篤郎社長(66)が退任し、元東芝会長の西室泰三・郵政民営化委員会委員長(77)が新社長に就く。6月20日の株主総会で正式に決まる。
日本郵政の経営陣人事は、株式を100%持つ政府の意向で決まる。政権交代のたびに、政治がらみの人事が繰り返されてきた。今回も社外を含む取締役18人のうち17人が退任し、総入れ替えとなる。さすがに経団連の米倉弘昌会長も「株主横暴との批判が出る可能性がある」と指摘した。
小泉純一郎政権が決めた「郵政民営化法」では、日本郵政は2017年までに貯金(ゆうちょ銀行)と保険(かんぽ生命)の2つの子会社の株式をすべて売り、完全に民営化する予定だった。しかし、09年に民主党政権になると、歯車は逆回転。12年4月に「民営化見直し法」が成立し、完全民営化は事実上、凍結された。
この見直しに「小泉改革の後退だ」と猛反発したのが菅義偉(現・官房長官)だった。菅は小泉政権で竹中平蔵総務相の副大臣を務めた。自民党に政権が交代。小泉民営化路線に戻すことを狙ったのが、今回の人事の真相だ。菅官房長官は「民営化を円滑に進めていくため(の人事)」と強調している。
政界の抗争で、西室のところに日本郵政の社長の椅子が転がり込んできた。ご本人はヤル気十分だが、経営者としての力量はというと、首をかしげざるを得ない。西室氏の足跡を振り返ってみよう。
1935(昭和10)年12月、山梨県に生まれた。実家は絹織物の染色業で、1女3男の末っ子。長兄が東京瓦斯元専務の西室陽一、次兄が月島機械元社長・会長の黒板行二(旧姓・西室)。小学校に上がる前から、毎日、朝食前に論語の素読をさせられた。
同世代のサラリーマンと比較すると、突出した国際経験を持つ。慶應義塾大学経済学部4年だった59年、カナダのブリティッシュコロンビア大学に1年間留学。61年、東芝に入社してからも、延べ14年間に及ぶ米国駐在を経験している。英語はスラング(俗語)を交えたジョークを飛ばせるというのが自慢だ。
電子部品、半導体、家電、パソコンなどの事業を担当。
96年6月、社長に就任。社長への登竜門である重電を担当したことがなかった。当時の東芝では異例のことだった。東芝が経営戦略としている「選択と集中」を言いだしたのは佐藤文夫社長(在任92~96年)。この路線を西室(同96~00年)、岡村正(同00~05年)、西田厚聰(同05~09年)、佐々木則夫(同09~13年)と歴代トップが受け継いだ。
西室はパソコンと半導体を収益の柱に据えようとしたが、失敗した。00年3月期に2期連続の最終赤字を計上、社長として結果を出せなかった。
社長時代の99年6月に、東芝クレーマー事件が起きた。東芝製ビデオデッキの修理を依頼したところ「クレーマー」と暴言を受けたとして、福岡市の男性が電話でのやりとりの音声をホームページ上で公開し、東芝が謝罪に追い込まれた事件だ。
ユーザーとのトラブルは、他のメーカーでもよくあることだ。こじれたのは、東芝がホームページの内容の削除を求める仮処分を申請したから。これが事を大きくした。東芝のこうした高飛車な態度に消費者が反発、不買運動へと発展した。慌てた西室は、副社長を福岡に謝罪に向かわせた。謝罪のタイミングを完全に見誤ったのである。
00年に会長に退いた西室は、財界活動に軸足を移す。02年から日本経団連の副会長に就いた。石坂泰三、土光敏夫という大物の経団連会長を出してきた東芝は、元祖・経団連企業だ。その後は財界総理の椅子に縁がなかったため、西室は経団連会長のポストに執着する。
経団連会長になるためには、現役の社長か会長であることが必須条件だ。だから西室は会長の座に固執した。
結局、経団連会長の夢はかなわなかった。05年、経団連副会長と東芝会長を退任。後任には、いずれも岡村が就任し、西室は相談役の肩書となり経営の第一線から退いた。
しかし、ポストへの欲求は少しも衰えていなかった。05年6月、東京証券取引所取締役会長に就いた。当時、東証は年内に上場する予定で、企業統治を強化するために経団連に会長候補の人選を依頼した。東芝会長と経団連副会長の両方を退任する西室が送り込まれたのは、こうした事情があったからだ。
05年12月、ジェイコム株式の大量発注ミス事件に絡み、東証のシステムトラブルの責任を取り、生え抜きの鶴島琢夫が社長を辞任する。会長の西室が社長を兼務し、07年6月まで社長を務め、10年6月に会長を退任した。
東証のトップとしての最大の“愚行”は06月4月、ライブドアを有価証券報告書虚偽記載を理由に上場廃止にしたことだろう。
西室が次に政府の要職に就くのは12年5月。郵政民営化委員会の委員長に選ばれた。同委員会は06年に発足以来、小泉首相のブレーンだった経済評論家の田中直毅が委員長を務めてきた。田中は民主党政権が日本郵政の政府保有株の売却を凍結したことを理由に、日本郵政の事業拡大を認めないという強硬方針を貫いてきた。
郵政民営化見直し法の成立を受け、日本郵政の斎藤次郎社長(当時)は個人・企業向け融資などの新規事業に乗り出す考えを示した。民主党政権は事業の拡大に反対の田中を更迭して西室を起用し、日本郵政から要請のあった新規事業の審査に当たらせた。
再び、自民党に政権交代。新社長となる西室は、政権の意向に沿って新規事業は凍結するだろう。
西室は財界のポスト引受人である。オファーがあれば何でも食いつく。勲章が欲しい“勲章ハンター”だと酷評する財界人もいる。
●異例の首脳人事に関与会長の西田厚聰(69)と社長の佐々木則夫(63)の確執が火を噴いた。2月26日、西田が会長に留任し、新社長には副社長の田中久雄(62)が昇格する人事を発表した。社長の佐々木は新設の副会長に追いやられただけではない。記者会見で西田は「1つの事業しかやってこなかった人が東芝全体を見られるのか」と発言し、原子力一筋の佐々木を公然と批判した。
「業績を回復し、成長軌道に乗せる役割は果たした。ちゃんと数字を出しており、文句を言われる筋合いはない」と佐々木は反論した。記者会見の席で、2人のトップが大喧嘩したわけだ。
両者には2人の社長経験者が応援についた。西田には西室相談役が、佐々木には岡村正相談役(74)だ。西田vs.佐々木は、西室vs.岡村の代理戦争でもある。
これには経団連の会長人事が複雑にからんでいる。
10年に経団連会長がキヤノンの御手洗冨士夫(77)から住友化学の米倉弘昌(76)に代わった。御手洗が後任に据えたかったのは東芝の西田だった。だが、同じ東芝出身の岡村正が日本商工会議所会頭だった。東芝が財界3団体のうちの2つを占めることにトヨタ自動車など財界の主流から反対が出て、御手洗は西田の起用をあきらめた。当時、西田嫌いの岡村が西田の経団連会長就任を潰すために、商工会議所の会頭に居座ったといわれた。
米倉の経団連会長の任期は、来年5月までだ。経団連会長就任への野望を捨てていない西田は、東芝会長の肩書を外すわけにはいかない。だから、自分は留任して、佐々木を副会長に追いやる人事を断行した。経団連の次期会長が来年の1月早々に決まるとの見方があるのは、西田が会長職にとどまっている間に次期会長を決めてしまおうという思惑があるからだ。一方、佐々木は安倍晋三政権の経済再生の司令役を担う経済財政諮問会議のメンバーに抜擢されたのに続き、西田の後任として経団連副会長に就くことも決まった。とはいえ、佐々木が東芝の中二階の副会長のままなら、経団連の副会長を辞めざるを得ないとの見方もあるくらいで、佐々木が来年、経団連会長に三段跳びで抜擢される目はほとんど消えたといわれている。
西田vs.佐々木は内紛で醜態をさらしたが、自分が経団連会長になりたい一心で東芝のトップ人事を壟断してきた西室は、日本郵政社長として不死鳥のように蘇った。強運の人に違いはないが、彼を良く言う財界人はほとんどいない。
(敬称略 文=編集部)