かんぽ生命の不適切営業が世の中を騒がせている。顧客が不利益を被るような保険の乗り換えを勧めるなど、高齢者を標的とした不適切な保険販売が常態化していることが明るみに出たのだ。
その背景にあるのが成果主義の徹底だ。だが、このような不祥事に潜在する成果主義の孕む問題点について、あまりに無自覚な若者が多い。成果主義というのは、経営側にとって非常に都合の良い手法なのだが、そこを勘違いして成果主義への移行を無条件に歓迎し、後押しするような声を若者の間でよく耳にする。
成果主義に対する勘違い成果主義についてどう思うかを200名ほどの大学生に書いてもらったところ、多くの学生が成果主義を礼賛し、それを望むような意見を記しており、その危険性を懸念する意見は非常に少なかった。典型的にみられた勘違いをいくつか紹介しよう。
(1)頑張った分だけ報われる?
最も多くみられた勘違いは、「成果主義になると、頑張った分だけ報われる」というものだ。「頑張り」を認めるのは成果主義ではない。成果主義においては、結果がすべてである。いくら頑張ったところで成果が出なければ評価されない。
成果主義が徹底しているのはスポーツの世界だろう。頑張っているから試合に出してあげようといった発想は日本ではあり得ることだが、それは成果主義的にはチームの弱点となる。
いくら頑張っても他の選手をしのぐ成果を出せなければ試合には出られない。プロスポーツの世界をみればわかるように、どんなに頑張っていても成果が出せなければ後輩に次々に抜かれ、数年でクビである。プロ野球のトライアウトでどこの球団も採ってくれずに20代で失業という選手たちの厳しい状況が、成果主義の本質をよくあらわしている。
「頑張り」を評価するのは日本流であって、成果主義を基本とする欧米では結果がすべてといった発想が学校教育の段階から浸透している。
たとえば、欧米では小学校から留年があり、小学校低学年でも学年相当の実力を成績によって示せないと留年になる。日本では、小学校はもちろんのこと、中学校でも高校でも、成績が悪いからと留年するようなことはまずない。成績が悪くても、「本人は頑張ると言ってるから進級を認めてやってほしい」と担任がお願いし、周囲が承認する、というのがよくあるやりとりだ。いわば温情で進級する。
このようなやさしい母性原理に当たり前のように馴染んでいる日本の若者には、成果主義になると「頑張り」を示してもダメなのだということを理解していない者が多い。
(2)自分たち若い世代の給料が上がる?
次に多くみられた勘違いは、「成果主義になると自分たち若い世代の給料が上がる」というものだ。これは、年功賃金だと無能な年配者でも高い給料をもらっているから、成果主義によりその無駄を省けば、自分たちに高い給料を払うことができる、という見方によるものだ。
成果主義により、組織にとっての無駄を省くことができ、効率化できるというのはそうかもしれない。
ゆえに、成果主義になれば、若い世代の給料が上がるというわけではなく、若い世代の中でも、とくに優秀な人はどんどん給料が上がり、あまり優秀でない人は給料が上がらず、優秀でない人は給料が下がり、同じ年齢でも給料が数倍も開くというようなことになっていくのである。
つまり、年齢に関係なく、とくに優秀な人が報われ、あまり優秀でない人はいつまでも安い給料のまま、というシステムということになる。同年齢であまり差がつかない平等主義に馴染んできたため、そのあたりの実感がない若者が多いようだ。
不適切営業に走らせる成果主義かんぽ生命の不適切営業の実態が次々に暴かれつつあるが、これこそまさに成果主義の徹底によるものと言わざるを得ない。
頑張りを評価するということになると、成果を出そうというところまで努力していないのに、頑張っているポーズを示すというやり方も通用してしまう。実際、日本の学校では、成績だけでなく取り組み姿勢も評価するようにとなっているため、「高校時代に勉強はできなかったけど態度をアピールすることで良い成績がついた」という学生の声をよく耳にする。そうした事態を防ぐには、成果主義的な仕組みも必要かもしれない。
だが、とにかく結果がすべて、それによって査定され、収入が決まるとなれば、何がなんでも結果を出すように動くしかない。結果を出せなければ収入が減るといったシステムの中で追い込まれた者は、なりふり構わず成果を出すべく営業するしかない。
そんな成果主義の弊害を如実にあらわしている郵便局員の声を新聞報道の中から拾ってみよう。
「あれだけの報道があってなお、現場は数字を毎日求められています。過剰なノルマは何も変わっておらず、管理職から詰められる毎日です。そして、こうしている間にもたくさんのお客さまがだまされ、被害が出ているのが現場です」
「保険の契約がとれなければ生活できません。保険の契約を取って稼ぐしかなく、結果的に不適切営業をしてしまうという流れです」
「こんなことはやりたくないが、毎日のようにノルマに追われて、退職者も増え、一人一人の社員の負担がとんでもないことになっている」
「どんな手を使おうとも営業成績がいい社員が評価されるという仕組みがおかしい」(以上、7月10日付西日本新聞より)
新聞報道に勇気を得て、不適切営業の実態を世間にアピールするSNSサイトまで登場したため、日本郵便はSNSなどの書き込みを禁じる通達をしたという。
成果主義でないから保たれた仕事の誠実さ郵便局の職員に親切にしてもらった記憶のある人は非常に多いのではないか。今でも親切な職員はたくさんいる。だが、郵便局は同じ日本郵政グループのかんぽ生命の商品を売り込んできたわけで、そうした郵便局の信頼を得てきた組織風土が揺らぎつつある。
改めて言うまでもないことだが、成果主義では、契約数や売上高など結果としての数字がすべてであり、その評価軸に「仕事の誠実さ」は含まれない。それは上述の郵便局員たちの声からも明らかである。
保険営業を長く担当していたかんぽ生命の元社員は、契約を取った客のサポートを社員にさせない会社の体質が問題だとする。「『以前の客ではなく、新しい客から契約を取ってこい』と指示され、以前の客と会うと反省文を書かされ」るため、上司にばれないように休日に馴染みの顧客を訪問していたという(7月10日付西日本新聞より)。
馴染みの客の応対をしても儲けにならない。
このようにみてくると、成果主義の孕む問題は、相当に深刻なものと言わざるを得ない。
これまで日本社会で仕事の質や誠実さが保たれてきたのは、数字にあらわれる結果がすべてという成果主義ではなく、「間柄の文化」特有の関係性を大切にする姿勢が強かったためと言える。
「間柄の文化」にふさわしい改革を私は、欧米を「自己中心の文化」、日本を「間柄の文化」と特徴づけている。自己中心の文化では自己拡張の原理で誰もが動くが、「間柄の文化」では相手との関係性を大切にしながら動く。
そのため、商売においても、顧客との関係性を大切にし、顧客の身になって考えることも当たり前のようになっており、そうでないと申し訳ない思いに駆られる。だからこそ相手を裏切らず、できるだけ相手の期待にこたえようとする、誠実な仕事が行われてきた。
だからこそ、消費者も相手を信じ、疑うことをしない。そのため、相手をまず疑い、身を守るのは個人の義務とみなす「自己中心の文化」と違って、日本の消費者はとても無防備な心理状態にあるわけだ。
そうした文化的伝統が、成果主義によって壊されようとしている。もちろん低成長時代にどのように稼いだらよいかといった問題を無視はできない。だが、それを従業員を数字で締めつけ駆りたてるという方向で解決しようとするから、このような不適切なやり方が横行してしまう。
ゆえに、新たな稼ぎの仕組みを模索しつつ、仕事の質が保たれるように人事評価の仕組みも改善していく必要があるだろう。
何かと欧米式を追随しようとする風潮が強まっているが、私たち日本人の心の中には日本の文化的伝統が刻まれている。異文化でうまく回っているやり方を取り入れたところで、うまくいくとは限らない。むしろ弊害が生じることが多い。改革するにも、これまでの文化的伝統を踏まえて行う必要がある。
先頃浮上したかんぽ生命の問題をみても明らかなように、日本式の相互信頼の社会といった体質を壊さないよう、「間柄の文化」にふさわしい人事評価の軸の洗練に努めるべきだろう。
(文=榎本博明/MP人間科学研究所代表、心理学博士)