村上春樹の新作『街とその不確かな壁』(新潮社)がついに発売。いつもはペンの力で世の中の欺瞞を切り刻む一流週刊誌も、自社のドル箱作家である村上春樹のことは何も書けません。

というわけで、毎年のように日本でノーベル文学賞候補として取り沙汰されることでもお馴染み、村上春樹作品が本当に価値ある文学なのか解説してみました。

※こちらの記事は、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』発売時、実話BUNKAタブー2013年7月号に掲載したものです。

 出版不況が叫ばれる昨今。

 しかし、村上春樹だけは例外らしく、本を出せばバカ売れです。もちろん買っているのもバ●ばかりなので、日本中がバ●で満ちあふれている証明でもあります。

 3年ぶりの新刊『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(文藝春秋)の発売時も、ハルキスト(春樹のファンの総称。

たいていは自称感度の高い情弱たち。中二病的価値観で世間的に評価の高いカルチャーを無自覚に受け入れるが、自分では物事を深く考えているつもり)が大挙して押し寄せてバカ騒ぎに。そんなこんなで発売後7日間で100万部突破だそうです。

 その部数に相当する素晴らしい内容だったら、大いに結構なのですが、当然のように今回も中身はいつもの春樹作品です。つまり、もったいぶった思わせぶりな表現で深そうなことだけ言っているけど、内容はなにもありません。そもそも賢明な大人が読むようなものではないのです。

 ではなぜ、そんな読むに値しないものが売れてしまうのでしょうか?

 なぜ、日本人は村上春樹にだまされてしまうのでしょうか?

アメリカかぶれの文章は両親のせい?

 そもそも村上春樹とは、何者なのでしょう? ざっくりと言えば、京都生まれ神戸育ちの小説家で、アメリカ文学翻訳家、現在64歳(記事掲載当時)。父親は浄土宗の住職の息子で国語教師、ついでに母親も国語教師です。本好きの両親の影響で読書家になったようですが、彼らが『平家物語』や『枕草子』など、日本文学の話ばかりするのにうんざりして、欧米の翻訳文学に傾倒。結果、アメリカかぶれのバタ臭い文章ばかり書くようになってしまいました。

 一浪して入った早稲田大学第一文学部映画演劇科に在学中に現在の夫人・髙橋陽子氏と出会い学生結婚。その理由は「同棲は潔くない」からだそうです。

ただし、彼の書く小説の登場人物の大半はそんなこと気にせず、お洒落なバーで隣に座って知り合ったら、たいていはその日のうちに婚前交渉です。早々に結婚を決めてしまったことの反動で妄想を書き散らしているとしか思えません。

 ちなみに村上さん、結婚も早ければ、商売に手を出したのも学生時代という早さ。なんでも所帯を持ったからには働かなければ、と思い就職活動らしきことをしたけど、どうしても会社に属して働きたくないからと、国分寺で始めたのがジャズ喫茶「ピーター・キャット」(以前飼っていた猫の名前から付けたそう。ふ~ん)。「自分の手で材料を選んで、物を作って、客に提供できる仕事」がしたかったからだそうです。

どんだけ気どれば、気が済むのでしょうか? イケ好かないにもほどがあります。

 開業資金の500万円の半分の250万円は夫婦でアルバイトして作り、残りは奥さんの実家から借金したそうです。ちゃっかりしているのは昔から変わりません。昼は喫茶店としてコーヒーを出し、夜はバー、週末は生演奏が聴ける店として大当たり。本人は“まずまずの成功を収めた”とか格好つけて言ってるみたいですが、たった3年で国分寺の田舎から、千駄ヶ谷の鳩森神社の近くという一等地に店を移転させたことからも成功は明らか。小説家としての名声を得てからは、商売人としての俗な成功など、むしろ黒歴史なのかもしれません。

ヒット作連発も文壇での評価は微妙

 で、小説家になったエピソードが、またふるってます。1978年4月1日の午後1時半ごろ、自らが経営する千駄ヶ谷のおしゃれなジャズ喫茶の近くの神宮球場で、ビールを片手にひとり、ヤクルト対広島の試合を眺めていたときのこと。1回の裏、先頭バッターが2塁打を打った瞬間に「そうだ、小説を書いてみよう」という想いが、空から舞い降りるように春樹の頭に浮かんだそうです。

 ……この人、なんなんですか? 自分のこと、マホメットとか預言者と肩を並べるカリスマだとでも言いたいのでしょうか? ただし、間違いなく、この話、絶対に嘘としか思えないのですが。自己演出の一環として、あとづけで考えたお得意のフィクションですよね? 「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね」とかって、小説の登場人物たちのセリフだけでも胡散臭くて恥ずかしいのに、本人まで胡散臭くて恥ずかしいとは、ある意味ブレなしです。

 まぁ、本当はずっと前から小説家になりたかったんだろう村上さんは、そんなスカした言い訳をしながら、29歳で処女作『風の歌を聴け』を発表し、小説家になります。この『風の歌を聴け』と2作目の『1973年のピンボール』は、2作続けて芥川賞候補になりますが、受賞は果たしてません。ちなみに当時の選考委員だった瀧井孝作は、「外国の翻訳小説の読み過ぎで書いたような、ハイカラなバタくさい作品」と酷評していますが、単純に言ってしまえば、文壇のお偉方も、スカしたおしゃれ小説が気に入らなかったに決まっています。

 芥川賞こそとれなかった村上さんですが、どうやら少しばかり小説が評価されたことに気を良くしたのか、軌道に乗っていたジャズ喫茶を人に譲り、小説家に専念します。もちろん、その理由はジャズ喫茶のマスターよりも、小説家の方が知的で格好いいからに他ならないでしょう。

 それからの春樹は、『羊をめぐる冒険』で野間文芸新人賞を受賞。そして上下巻あわせて1000万部以上の発行部数を誇る『ノルウェイの森』で、一気に国民作家に上りつめます。とはいえ、この『ノルウェイの森』にしても、主人公の冴えない「僕」が、リアリティのない不思議ちゃんや、メンヘル女に、意味もなくモテまくるだけの話で、評価できる部分があるとすれば、正直バカ売れしたこと、この一点に尽きます。

 世間と関わるのが大嫌いな村上さん、売れっ子になるとすぐに日本を脱出してアメリカに移住しました。その理由は、某写真週刊誌が「少年時代の写真を無断で掲載した」からというもの。傷つきやすいナイーブな感性の持ち主だから仕方ないと世間は言いますが、実際は自己プロデュースの及ばない恥ずかしい少年の自分が出回ることに耐えられなかっただけでしょう。

 しかし、村上さんの欲望は留まることを知りません。大好きなアメリカで、毒にも薬にもならないメルヘン小説を書いてりゃいいものを、それだけでは満足できなかったらしく、オウム真理教が地下鉄サリン事件を起こすと、突如として社会派に転身。サリン事件の被害者をインタビューして、初のノンフィクション作品『アンダーグラウンド』を書き下ろします。

 ただし、これがノンフィクションとは名ばかりの酷いもので、相手を否定も肯定もせず、自由に喋らせて、そのまま聞き書きするだけという代物。結局は、自分は絶対に傷つかない高みから、被害者は可哀想と同情し、最後は「危機管理をしっかりすべし」というサルでも思いつきそうな安易な結末で締めくくられているのです。

 もちろん何も考えずに村上さんは、ノンフィクションをお書きになったわけではありません。彼が見据えているのは、他でもないノーベル文学賞でしょう。ノンフィクションを書くこともそうですが、年々政治的発言も多くなっています。

 中でもある意味秀逸だったのが、2009年に権威ある文学賞とされるエルサレム賞を受賞したときの「壁と卵」のスピーチです。ノーベル賞の選考に影響の大きいユダヤ人のご機嫌を取りたくて批判覚悟で、ガザ攻撃直後のイスラエルでの授賞式にノコノコと出かけていった村上さん。現場では、「壁(弾圧する側)と卵(弾圧される側)だったら、私は常に卵の側に立ちたい」とお得意のメタファーを盛り込んでイスラエル政府を批判。なんとなく上手いことやった感が漂いましたが、評論家の斎藤美奈子に「こういう場合に『自分は壁の側に立つ』と表明する人がいるだろうか(中略)作家はもちろん、政治家だって『卵の側に立つ』というのではないか」(「朝日新聞」09年2月25日付夕刊)とその底の浅さを看破される有様。

ノーベル賞を逃し続ける原因は実力不足

 そんなあざといことばかりやっているのが災いしたのか、毎年のように候補になりながらも、ノーベル賞を逃し続ける村上さん。とはいえ、そもそも、その作品のクオリティがノーベル文学賞に値しないという話も。代表作『ノルウェイの森』はただのポルノ小説だし、1992年の『ねじまき鳥クロニクル』以降の作品に顕著な暴力描写もヨーロッパ圏では受け入れられがたいようです。最近の作品『1Q84』に至っては、児童ポルノにすぎないという意見も少なくありません。

 しかも問題はそれだけではありません。『ねじまき鳥』以降の作品には、矛盾点が散見するのです。本来であれば、編集者が疑問点や納得できない言い回しは、チェックして修正させるところですが、もはや村上天皇の原稿に文句をつけられる者はいません。結果として、そのままスルーとなり、辻褄の合わない失敗小説が出版されるわけです。

 やはり選考委員もバカではありません。そんな矛盾だらけの駄作を垂れ流す作家にノーベル賞を与えるはずがないのです。そんなわけで、幸いにも中身の何もない空っぽの作家がノーベル賞を受賞することは避けられそうですが、村上さんの小説が売れていることだけは疑いようのない事実。まぁ、すべてはミーハーで流されやすい国民性ゆえのこと。テレビや新聞で煽られれば、ついつい買ってしまう、にわかハルキストが日本中にあふれています。

 ただし、彼らの大半は流行ってるからという理由で一応買ってみますが、読みはしません。積んでいるだけです。残りの2割くらいの人は読み始めるかもしれませんが、その変なメタファーと形容詞満載の気どり過ぎな文体にゲンナリして、半分くらいが途中で挫折します。

 そして最後まで読んだ、残りの人たちだけが、ようやく駄作だということに気づくのです。ちなみに真性のハルキストは、どんな駄作でも盲目的に受け入れるのでこの限りではありません。

 結果として、残念ながら村上春樹作品がショボいということに気づく人はほとんどいません。おかげで春樹作品はいつまでも売れ続けるのです。重ね重ね、残念という他ありません。

初出/実話BUNKAタブー2013年7月号【関連記事】村上春樹作品の空虚さと人気を煽って商売する胡散臭い大人たち