あるバラエテイ番組で、オリンピックのメダリストのお母さんの密着特集がありました。そのお母さんはお子さんと同じ競技の指導者で、プライベートレッスンも受け付けているそうです。
お母さんが、レッスンにまつわるこんなエピソードを明かしていました。ある人にレッスン中、お子さんから電話がかかってきて、飛行機が飛ばなくなってしまったという連絡を受けたそうです。その時、お母さんはプライベートレッスンのお金を全額返金して、レッスンをキャンセル。お子さんのいる空港へと向かい、お子さんに変わって手続きをやってあげたそうです。

「コーチの代わりはいるけれど、お母さんの代わりはいない。お母さんは絶対助けてくれると思わせることで、自己肯定感を高めたかった」というような意味のことをおっしゃっていました。


○“夫や子を立派に育て上げるのは女性の仕事”-信念バイアスが強い日本

さて、みなさんはこのお話をどう思われるでしょうか。私は心の汚れたオトナなので、これはお子さんがメダリストじゃなかったら、感想が大分違ってくるなと思ったのでした。メダリストの母でない人が、レッスン中に子どもからの電話を取り、返金したとは言え、仕事をやめて空港に向かったら、職業人としての自覚を疑われるし、今後の仕事にも差し支えがあるあるかもしれない。しかし、メダリストの母がエキセントリックなことをすると「あれくらいでないと、子どもをメダリストにはできないのだ」と好意的にとらえられてしまう。

結果がよければそこに至るプロセスはすべて正しいとし、反対に結果がでないと「やり方が悪い」と決めつけてしまうことを、心理学は「信念バイアス」と呼んでいますが、日本はこのバイアスが強い国なのではないかと思います。

ノーベル賞受賞者の妻、オリンピックのメダリスト、名門大学合格者の母は「いかにして夫と子どもを育てたか」に注目が集まります。
取材を受けるのは常に女性であることから、いつのまにか「夫や子どもを立派に育て上げるのは、女性の仕事」とすりこまれていくように思うのです。
○天才・伊藤みどり選手は山田満知子コーチのもとで、ジャンプの才能をどんどん開花

それでは、名コーチと呼ばれる人は「選手を育て上げる」ことをどう考えているのでしょうか。今回取り上げるのは、1992年アルベールビルオリンピック銀メダリスト・伊藤みどり選手の“育ての親”である山田満知子コーチです。

今でこそフィギュアスケートは大人気のスポーツですし、国際大会の表彰台に日本人選手が複数上ることは珍しくありませんが、80~90年代の日本はメダルなんて夢のまた夢と思われていました。そこに一人現れたのが天才少女・伊藤みどりさん。

山田コーチがスケートリンクで子ども向けスケート教室を開催していたとき、たまたま家族で遊びに来ていたみどりさん。
山田コーチの指導をそっと見ていた少女がコーチの言ったとおりにやってみたら、お金を払って参加している生徒ができないのに、一回でできちゃった。美内すずえセンセイの「ガラスの仮面」(白泉社)を彷彿とさせるエピソードですが(そう言えば山田コーチのファッションって、速水真澄社長の秘書・水城さんに似ていますよね)、天才というのは、自分を見出す人と出会える運もあるのかもしれません。

フィギュアスケートはお金のかかるスポーツで有名ですが、みどりさんの家庭はご両親が離婚していて、とてもその費用は捻出できそうもない。でも、山田コーチはみどりさんを見捨てることはなかった。みどりさんは山田コーチのもとでどんどん才能を開花させ、小学生ながら、大人でも飛べないジャンプをどんどんマスターしていきます。しかし、難易度の高いジャンプは足首に負担がかかるので、怪我のリスクも上がっていきます。
それを防ぐには、体重を増やさないことが重要となるそうですが、成長と共に体重が増えていくのは当たり前のことなので、アスリートたちは減量しなければなりません。山田コーチは偏食のひどいみどりさんを家に引き取り、食事を共にして体重管理に努めたそうです。
○トリプルアクセルを跳ぶかどうか、みどり選手の判断にゆだねた

お母さんがいらっしゃるのに、みどりさんと生活を共にした山田コーチのことを、“やりすぎ”とか“べったり”だと感じる人はいたかもしれません。しかし、私が驚いたのは、アルベールビルオリンピックでの山田コーチの話なのでした。現在のルールとは違うので、ちょっとわかりにくいかもしれませんが、みどりさんは極度の緊張のため、オリジナルプログラムでジャンプが決まらず、自力でメダル獲得の可能性が消えてしまいます。フリーの演技で、みどりさんの代名詞、トリプルアクセルを決めれば高得点が期待できる。
けれど、あの時のみどりさんのコンディションを考えると、それはあまりに無謀な賭けでした。

そんなみどりさんに山田コーチはどちらのジャンプにするかは「自分で決めなさい」と声をかけ、みどりさんも直前まで一人で考えて、トリプルアクセル跳ぶことにしたそうです。もし“やりすぎ”もしくは“べったり”なコーチなら、みどりさんの気持を無視して、ああしろこうしろと言ったのではないでしょうか。そして、みどりさんは見事トリプルアクセルを決め、銀メダルに輝いたのでした。
○「一生懸命やっていない子には、注意しない」選手との間に一線を引く山田コーチの流儀

みどりさんだけでなく、数々の有名選手を育てたことから、山田コーチは名コーチの誉を高くしていきますが、そんな山田コーチの言葉に「一生懸命やっていない子には、注意しない」というものがあります。やる気のある子には本気で指導するけれども、そうでない子にはそうしないと、自分と選手の間に“一線”を引くのが山田流なのかもしれません。


実は本連載で過去に取り上げた 小出義雄監督も同じようなことをおっしゃっていました。小出監督のもとからは、高橋尚子さんや有森裕子さんら、メダリストが出ていますが、実は彼女たちが小出監督の指導を受ける前の成績はさんざんだったそうです。高橋尚子さんは全国都道府県対抗女子駅伝の区間順位は47人中45位、有森裕子さんは大学時代にいい成績を残せていません。しかし、二人とも「どうしても小出監督に指導してほしい」と譲らず、小出監督は根負けした形で、指導を引き受けたそう。もちろん、熱意があれば結果が出るほど甘い世界ではありませんが、小出監督は著作の中で「馬を水辺につれていけても、飲ませることはできない」と繰り返し書いています。

どんな名コーチでも、選手の代わりになって練習することや、戦うことはできません。それに、試合という本番で頼れるのは、自分しかいないのです。だからこそ、名コーチは「ここまでは私の仕事、ここからはあなたの仕事」とプロフェッショナルに一線を引くことができるのかもしれません。

仁科友里 にしなゆり 会社員を経てフリーライターに。OL生活を綴ったブログが注目を集め『もさ子の女たるもの』(宙出版)でデビュー。「間違いだらけの婚活にサヨナラ」(主婦と生活社) が異例の婚活本として話題に。「週刊女性PRIME」にて「ヤバ女列伝」、「現代ビジネス」にて「カサンドラな妻たち」連載中。Twitterアカウント @_nishinayuri この著者の記事一覧はこちら