めまぐるしく愛おしい88年間の日々を支えてくれたのは、いつも“おいしいもの”だった――。『魔女の宅急便』の著者であり、「魔法の文学館」開館や「紫式部文学賞」受賞でも話題の作家・角野栄子さんのエッセイ集『おいしいふ~せん』(NHK出版)から、珠玉の5篇を試し読み。
文中に登場するカラフルで愉快なイラストも、角野さんご本人の手によるものです。
今回のお話は、「名前はバカヤロー」。

○名前はバカヤロー

今から60年ほど前、ブラジルのサンパウロで暮らし始めたとき、まずは食べ物の名前を覚えなくてはと思った。日々の暮らしにはこれは欠かせない。私の格闘が始まった。
お肉屋さんに行けば、大きな牛の縦割り半分がつり下がっている。
「これを」と指差して、全部買わされでもしたらと思うと怖い。(まさか!)
部位の名前がわからなかったら、ひき肉も、ステーキ肉も買えないのだ。まずは「塩」から始まり、1つずつ覚えていった。

ある日のこと、街を歩いていると、妙なにおいが漂ってきた。生臭いけど、ちょっとそそられるにおい。「くさやみたい」。
これなら私の大好物。「くんくん」と鼻をならす。
店先に、ちょうど三角凧のような形をした、白っぽいものが薄い布団のように重なっておいてある。近づくと、それは1メートルもある大きな魚を背びらきにして、塩づけにしたもののようだった。とっさに浮かんだのは、「お茶づけに合いそう」の気持ち。でも、これもまた大きい。

立ち去り難く、眺めていると、店から人が出て来て、「バカレアオ?」と言った。私は手刀のジェスチャーをして、「カット」と言ってみる。「オー、ナウン!」と、相手は首を振る。 お茶づけは諦める。でも、私は名前だけは、しっかりと覚えた。この妙なにおいの魚の名前は「バカヤロー」という。


「ちがう、ちがう、バカレアオだよ。バカヤローじゃない」とご親切に直してくれても、一度覚えた言葉を変えられないのは私の語学ぐせ。ずっと「バカヤロー」で通した。
この魚は、たら。大きささえ問題なければ、お茶づけに合わなくはない。でも、この国では美味しい食べ方があるのだ!
その1、塩抜きしてゆで、ホカホカのゆでジャガイモと一緒に、ニンニクとオリーブオイルをソースに食べる。

その2はコロッケ。塩抜きしたたらを細く裂いて、コロッケにする。これは最高! 星2つ! ポルトガルでも全く同じものが食べられる。街角のカフェにはおいてあるから、それを1つ買って、立ったまま食べる。旅の途中のおやつにちょうどいい。大抵、隣に「ひき肉コロッケ」もおいてあるから、お間違いのないように。
大きな声で「バカヤロー・コロッケ」と言ってください。通じます。

本連載は、 『おいしいふ~せん』より、一部を抜粋してご紹介しています。

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○『おいしいふ~せん』(NHK出版)
著者:角野 栄子

たんぽぽの汁を吸って亡き母を想った子ども時代、初めての味に驚きの連続だったブラジル生活、『魔女の宅急便』の読者から届いたゆすらんめのジュース……。めまぐるしく愛おしい88年間の日々を支えてくれたのは、いつも“おいしいもの”だった。角野栄子さんならではのユーモアと温かみにあふれる文章と、カラフルで愉快なイラストを散りばめたショートエッセイ56篇を収録した本書は、かわいい装丁とサイズ感はプレゼントにもぴったり。何気ない毎日の愛おしさに気がつき、前向きになれる一冊は、Amazonで好評発売中です。

○PROFILE:角野 栄子(かどの・えいこ)

東京・深川生まれ。大学卒業後、紀伊國屋書店出版部勤務を経て24歳からブラジルに2年間滞在。その体験をもとに書いた『ルイジンニョ少年 ブラジルをたずねて』で1970年作家デビュー。1985年に代表作『魔女の宅急便』で野間児童文芸賞、小学館文学賞受賞。2000年に紫綬褒章、2014年に旭日小綬章を受章。2016年『トンネルの森 1945』で産経児童出版文化賞 ニッポン放送賞を受賞。2018年に児童文学のノーベル賞ともいわれる国際アンデルセン賞作家賞を受賞。2023年に『イコ トラベリング 1948ー』で紫式部文学賞受賞、11月に江戸川区角野栄子児童文学館が開館。