──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ

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書状をしたためる家康(松本潤)| ドラマ公式サイトより

 『どうする家康』第42回は、小山評定~伏見城陥落~関ヶ原開戦前までといった内容でしたね。伏見城の激戦が最大の見どころで、最後まで鳥居元忠(音尾琢真さん)と共に戦う千代(古川琴音さん)の姿が印象的でした。

亡くなるシーンは直接的には出てきませんでしたが、渡辺守綱(木村昴さん)が全員討ち死にと江戸城の家康(松本潤さん)に報告していたので、2人とも戦死してしまったのでしょう。千代のファンだったので、無念です。

 前回の本連載では、慶長5年(1600年)7月25日の「小山評定」で石田三成との対決を決めた後、なぜか家康は8月4日まで小山に留まっていたとお話ししました。そしてその後、江戸城に入った家康は、9月に進軍を開始するまで、1カ月以上もそこから動こうとしませんでした。

 ドラマには、家康以下、本多忠勝(山田裕貴さん)のような武断派の武将までもが机を並べ、ひたすらに手紙を書いているシーンが出てきたので、驚いた方もいるかもしれません。現代の戦略理論において、戦争とはなるべく避けるべき事態であり、不可避の場合はとにかく早期終結を目指すべきだとされていますが、戦国時代の常識はそれとはまったく逆でした。

大義ある戦争こそが最も必要とされていたのです。だからこそ、史実においても家康と部下たちは各地の大名たちに手紙を書き、自分たちの正義をさかんに主張して、味方に引き入れようとしていたわけですね。ドラマの家康は「腕が折れるまで書くぞ!」と皆を鼓舞していましたが、江戸城から各地に送られた書状は(現存するだけで)120通以上。実際は腕が折れるほどの量ではなかったかもしれませんし、本文そのものは多くの手紙や書類を代筆してくれる御右筆などがしたためて、家康本人はサインに相当する花押だけ入れていたのではとも思われます。

 一方で、ドラマにはそのような描写はありませんでしたが、この時、史実の家康が最も気合いを入れて作成したのは、朝廷への書状だったと思われます。朝廷に「豊臣秀頼の出陣を禁止してください」と頼み込む必要がどうしてもあったからです。

 ドラマでは茶々(北川景子さん)が「秀頼を戦に出す用意はある」と三成(中村七之助さん)にチラつかせていましたが、関ヶ原において三成がコロッと負けてしまったのは、秀頼を大坂城から担ぎ出せなかったことが大きな理由だったでしょう。秀頼が明確に三成の味方をするとなれば、家康が戦うための大義は消失します。それゆえ、三成は秀頼に出陣してもらいたかったのです。一方、家康としては秀頼には中立の立場を貫いてもらい、三成を戦で打ち破ってから秀頼に自分の側に付いてもらうことで、自分の絶対的な正義を天下に示そうとしていたのだと考えられます。

 関ヶ原開戦の約1カ月前となる慶長5年8月16日、朝廷は広橋兼勝と勧修寺晴豊という二人の公家を勅使として大坂城に遣わし、「天下無事ノ義」、つまり朝廷の最高職である関白を将来的に務めるであろう秀頼の出陣は許可できないと伝えたそうです(『時慶卿記』)。これはいわば家康に味方したということであり、朝廷は豊臣家の行く末に疑問を感じていたのかもしれません。

 秀頼が出陣するか否かは、決戦の地が関ヶ原になった理由にも影響したと思われます。秀頼を出馬させてはいけない=秀頼を戦の当事者にしてはならないという朝廷からの命令が下った以上、西軍の事実上の大将である石田三成は大坂城から軍を率いて出ていかざるをえず、その際、日本の東西を分ける地点だと認識されていた関ヶ原が決戦候補地になったと考えられるからです。家康軍に関ヶ原を越えられてしまうと、あとは京都・大坂といった上方の中心部分にたやすく侵入できてしまうがゆえという部分もあったかもしれません。

 しかし、「なぜ関ヶ原だったのか?」という点だけでなく、慶長5年(1600年)9月15日の早朝に始まったとされる戦の具体的な内容についても、意外なまでによくわからないことが多く、定説がないのにはあらためて驚かされてしまいます。おそらく次回・第43回のドラマは井伊直政(板垣李光人さん)が大活躍する回になるのではないかと想像されますが、彼が関ヶ原で先鋒を務めたという歴史好きには有名なこのエピソードも、実はあまり詳しいことがよくわかっていないのです。

 もともと先鋒を任されていたのは、福島正則のはずでした。

敵陣に真っ先に乗り込んでいく先鋒は命がけの危険な任務ですが、武功を挙げる可能性が最も高いと考えられており、「槍働き」を主な仕事にしている武断派の武士たちにとっては絶対に務めたい仕事だったのです。また、いわば名誉の先鋒役をすでに任されている者から他の誰かが奪い、抜け駆けすることは死罪に相当する重罪であるとの認識を家康は示していました。抜け駆けをした者を厳しく追及し、切腹させるといった厳罰に処したこともあるほどです。

 それではどうやって井伊直政は、福島正則から先鋒を奪い取ることに成功したのでしょうか? 実はこの問題に関する一次資料もほとんど残されていません。江戸時代中期の大学者・新井白石は、福島隊から先鋒を奪い取った井伊直政・松平忠吉らが、なぜ罰せられるどころか家康から褒め称えられたのか、その謎について考察していますが、「忠吉は家康の代官として、つまり戦場における大将の役を仰せつかっていたのではないか」という仮説を立てています。

 筆者は、家康最大の寵臣であった井伊直政のアイデア(福島正則から見れば、ただの悪巧み)が家康の心を動かしたからでは、と考えています。

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『どうする家康』家康の「寵臣」井伊直政は関ヶ原での先鋒を奪い取った?
『どうする家康』家康の「寵臣」井伊直政は関ヶ原での先鋒を奪い取った?の画像2
井伊直政(板垣李光人)| ドラマ公式サイトより

 もともと家康は、自身の後継者と考えていた秀忠に先鋒を任せるつもりでいました。しかし、秀忠は真田家の足止めをくらって関ヶ原への到着が大幅に遅れてしまいます。東軍の精鋭を任されていたはずの秀忠が開戦に間に合わないと判明した時点で、先鋒は福島正則となりましたが、後継者に武功を立てさせたいと考えていた家康からすれば、その代替案に心からは納得できなかったのではないでしょうか。そこに家康最大の寵臣である井伊直政が、秀忠の同母弟である松平忠吉に先鋒を務めさせるという奇策を思いつき、家康もそれに同意した……というあたりだったのではないかと思われます。

 松平忠吉は、秀忠同様、家康の側室・於愛の方が産んだ子です。しかし家康の親戚筋にあたる東条松平家の当主・松平家忠の養子に出されていたので、忠吉は家康の子でありながら、徳川ではなく松平の姓を名乗ることになったのですね。

当時21歳の忠吉にとって、関ヶ原はやや遅めの初陣でした。忠吉は井伊直政の娘を正室に迎えており、忠吉にとって直政は舅にして後見役という立場です。家康の実子であり、直政にとっては娘婿である忠吉に戦功を挙げさせることは、家康・直政双方にとって、かつては秀吉子飼いの大名として知られていた福島正則を先鋒にするよりもベターに思われたのではないでしょうか。

 家康の側近だった松平家忠の日記『家忠日記』には関ヶ原当日の記録はなぜかないのですが、家忠の孫にあたる忠冬が編纂した『家忠日記増補追加』には興味深い記述があります。開戦直前、井伊直政は松平忠吉を連れて福島隊に近づいたそうで、福島家の家来から行動を怪しまれた直政は「抜け駆けは許されませんぞ」などと注意されました。しかし直政は平然と「家康公が、忠吉さまと私に斥候(=偵察活動)をお命じになられた」と言い訳し、福島隊の前に進み出ると、忠吉とともに大声をあげ、鉄砲を打ち鳴らしながら西軍に突っ込んでいって、実質的に先鋒を奪い取ってしまった……というのです。直政は、「あくまで斥候のつもりだったが、敵に怪しい動きが見られたので、福島隊を守るため、特攻せざるをえなかったのだ」という演技をしたのでしょう。

 直政と忠吉は大きな武勲を挙げましたが、ほとんど部下も連れぬままであったからか(連れていたところでわずか数十名程度)、両名ともに鉄砲傷を負ってしまいました。関ヶ原の戦い自体は半日で終了し、家康率いる東軍の圧勝に終わったので、当日の夜に開かれた合戦の総括では、本来なら罪となるはずの直政と忠吉の抜け駆けについて、家康は怒るどころか、上機嫌で「直政の抜け駆けは今に始まったことではない」と答え(『寛政重修諸家譜』)、直政の傷に自らの手で軟膏を塗ってやり、やさしく労わる姿を皆の前で見せつけたといいます。

 しかし、家康は一方で、直政同様に鉄砲傷を負った忠吉のことは放置していたそうです。『永内記』では「薩摩守(=忠吉)御手負れ候には、御頓著なく」などとあるように、一次史料ではないものの、我が子より直政を寵愛していることを隠そうともしない家康の姿を記している文献が多くあるのは興味深いですね。「我が子より家臣を大事にする」という家康の人徳を持ち上げる論調ではあるのですが、家康にとって忠吉はあまり可愛く思えない息子だったのでしょうか。

 もっとも、直政は関ヶ原開戦の前日、大坂城から出ぬままだった西軍の総大将・毛利輝元の調略を成功させており、抜け駆けの罪も、関ヶ原を勝利へと導く多大な貢献により不問にされたという面もあるかもしれません。とはいえ、以前にもこのコラムで紹介したとおり、家康の「色小姓(=男性の愛人)」であったと目されるほど、直政が特別扱いされていたこともまた考慮するべきでしょう。

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『どうする家康』家康の「寵臣」井伊直政は関ヶ原での先鋒を奪い取った?
cyzo
日刊サイゾー2023.04.23

 『どうする家康』の公式サイトには、第43回の場面写真の中に、本多忠勝に支えられた直政が腕を押さえているように見える写真が公開されていますが、ドラマの直政は腕を狙撃されるのでしょうか。関ヶ原での直政の負傷箇所にはさまざまな説があります。重くて頑丈な鎧を着て戦う習慣があったがゆえに、鎧に着弾した鉛玉が砕けて弾け飛び、その破片が足や腕に当たったという説もあります。少なくとも右肘には酷い負傷をしていたと思われます。関ヶ原以降、直政は書状に花押を記さなくなったからです。

 慶長6年(1601年)の論功行賞では、一番に直政の名前が挙げられました(『東照宮御実記』)。報奨として佐和山城と18万石が与えられたものの、しかし直政は体調を悪くしていき、翌年には亡くなってしまっています。おそらく身体にめりこんだ鉛の鉄砲玉の破片が当時の医学水準では取り出すことができず、折からの体調不良も手伝い、鉛中毒が深刻化して亡くなってしまったのではないか……と考えられます。

 直政の健康状態の悪化については、佐和山で石田家に仕えていた女房たちが関ヶ原の敗戦にともない、集団投身自殺を遂げたことに由来する祟りのせいだという怪談もありますね。そういう話が創作され、語り継がれるほど、直政の病状は苦しいものだったのかもしれません。

 直政の死について、なぜか家康の公式伝記『東照宮御実記』は一行も記していないのですが、おそらく直政を溺愛していた家康が「天下人」にふさわしからぬほどの悲嘆を晒してしまったからではないか、と筆者は考えています。

 その一方で、慶長12年(1607年)の『御実紀』によると、松平忠吉が病死したと告げる使者が来ても家康は実にそっけない態度を見せたそうで、傍に控えていた天海僧正からのお悔やみの言葉にも「秀忠が、弟を失って悲しむだろう」とか「この頃の(忠吉の)病状ならば、そうであろう」と言うだけだったそうですよ。

 史実の家康には、我が子以上に寵愛する男性がいたのかもしれません。ドラマの家康は直政に熱視線を向けることはありませんが、直政との強い結びつきがもう少し劇中で描かれていれば、直政の関ヶ原での活躍、そして早すぎる死は一層感情移入できるはずなのに……と残念に思ってしまう筆者でした。

<過去記事はコチラ>『どうする家康』徳川秀忠の「関ヶ原への大遅刻」と真田昌幸・信繁の「足止め」──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ...

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