うーん、うーん。こわいよう。

なにがこわいかというと、唐沢なをき『まんが極道』がこわいよう。
こわくない? 私はこわい。フリーランス(ことに文筆業)で食っている人間は、みんなこの漫画を読むとぞっとするはずだ。
『まんが極道』は、唐沢なをきが「月刊コミックビーム」で2006年から連載している作品で、最新刊で単行本は5冊になった。漫画業界の内幕もの、と単純にくくってしまうのはたやすいが、それ以上の痛々しさがこの作品にはある。唐沢が繰り出してくるキャラクターたちは、売れっ子の漫画家あり、万年アシスタントでデビューにこぎつけずにもがき苦しんでいる者あり、漫画業界の周辺でうろうろしている得体の知れない人士ありで、実に混沌としている。
売れっ子には売れっ子の悩みがあり、そうではない者にはそうでないなりの苦しみがある。立場こそばらばらだが、必ずどこかが読み手の琴線に引っかかるようになっているのだ。

今までで私が一番こわかったのは、4巻に収録されている第40・41話「墜落」の前・後編だ。この話の主人公は売れっ子漫画家「だった」山本孫太郎虫先生で、『まんが極道』では以前にも登場したことがある。彼は売れっ子であることを鼻にかけ、アシスタントに対しては暴君としてふるまってきたのだが、その孫太郎虫先生が、「落ち目」になってきてしまうのである。
ひーっ、これは想像するだけで怖い。
人気漫画『ゴワゴワくん』の次の連載『オメガくん』の単行本は、1万部スタートだった。『ゴワゴワくん』の累計部数は5千万部だから、孫太郎虫先生としては心中穏やかではないわけである。
「これ、本体価格420円だから……1冊売って42円でしょ!? 1万部で――印税42万円!! これじゃアシ代のアカも埋まらねーよ!! 俺を誰だと思ってるんだっ 『ごわごわくん』の山本孫太郎虫だぞ わかってんのか!?」
憤激する先生に、担当編集者は言う。
「だからそれは連載がイケイケだった頃の話ですよね 調べたんですよ 先生ひところに比べて随分人気が落ちて 去年の暮れに出した『ごわごわくん』の最終巻3万刷って7千しか動いてないって 営業に8千スタートにしておけって言われたんですけど 無理言って1万刷ってもらったんですから 礼言ってほしいくらいですよ私はむしろ」

わーっ、わーっ、わーっ! それ以上言うな、みなまで言うな!
もうこの辺でこわい。自分の人気がじわじわ下向きになっていることを数字できちんと示されるなんて、拷問以外のなにものでもない。仕事場に帰った孫太郎虫先生が『オメガくん』の原稿料で月収を計算して「定期を解約してしのぐしかない」という結論に達するところもこわいし、あてにしていた新連載の話が次々に流れる場面で、背景にアリジゴクの巣の中に落ちていくアリの絵が書かれているのもこわい。
自分の連載が打ち切りになったり、雑誌が休刊したりしたときに、同じような計算をしなかったフリーライターは1人もいないはずだ。わーっ、わーっ、定期を解約するしかないかも、って私も考えたことがある。あるんだよう。

この作品の優れている点は、「漫画は夢である」ということを否定しないところだ。漫画は夢であり、夢を信じて精進している者にとっては道でもある。ただ、リアリストの作者はその夢や道の先にとんでもないものを付け加えてみせる。


――夢は単なる夢に終わることもありますよ。
――道は行き止まりになっていることもありますよ。

そういうことだ。失敗を怖れず踏み出す者にしか勝利の女神は微笑まないが、踏み出したからといって微笑んでくれるとも限らない。そんなリアルな人生の法則を、こともあろうにギャグ漫画で教えられてしまうのである。

また、すでになにがしかの夢をつかんだ者ではなく、それをつかめずにあがいている者の話もこわいことこの上ない。
第1巻は、そうした漫画家志望者たちのカタログのようである。持ちこみした原稿の駄目さ加減を指摘され、発奮する代わりに「枕営業」をしてしまい、とんでもないところに迷いこんでしまう第4話「枕営業」の夢脳ララァ、45歳にして母親のすねをかじりって生活している第5話「母と子」の篭目山トト治、夢破れて故郷に帰り実家の家業を継ぐも、友達には東京で漫画家になったと言ってしまう第11話「帰郷」の山本屑男、などなどと、手を変え品を変え、読者の心を削りにくる。先日読んだ施川ユウキのエッセイマンガ『え!? 絵がヘタなのに漫画家に?』に、「大学ノートに漫画を描いては破って捨てる話」が出てくるが、あれを思い出しました。いや、施川先生は立派にデビューしたけどな!

 それでも彼らは、一度はペンをとってがんばったのだから、まだいい。それ以上におそろしいのは、「がんばらなかった」者たちだ。「漫画家なんてたいした職業じゃないから」「しっかりした職に就いたほうが結局は勝ちだから」うんぬん、といった理屈をこねて、努力をする前に自分の夢を諦めた人間のことも、ちょくちょく唐沢は描くのである。
そのむごいこと、むごいこと
 第2巻第21話「ならなくてよかったくん」は、学生時代の友人だったという縁をいいことにその仕事場に入り浸り、「部屋にとじこもってばっかりいないでさ もっと外の世界と向き合えよ!! 卒業しろよオタクをさ」などと説教をこき、周囲の人間には「あいつに漫画の描き方教えてやったの俺 いうなれば俺あいつの師匠」と自慢をする。しかしそんな彼も、帰宅して一人になったときには、布団を抱きしめて「むなしくないぞっ 全然むなしくないからなっ」と号泣するわけである。わっはっは。また、第3巻第30話「僕は漫画家(うそ)」は匿名掲示板に漫画家のふりをして書きこみ、知ったかぶりをして自尊心を満たそうとする男のお話だ。これは涙なしに読めないです。

ツールの発達によって、「表現」することの敷居は格段に低くなった。その中で、自身の「なりたいもの」と「なれるもの」の開きにとまどっている人は多いはずだ。『まんが極道』は、「自分の能力はまだこんなものじゃない」「俺、まだ本気出してないから」と思いたがっている人の心をチクチク刺してくる。それ以上に扱いがひどいのは、魔界に入りこんでしまった人だ。自分の能力が不足しているからといって、ひとさまの作品から盗作したり、自分では何もしてないのにズルをして手柄を横取りしたりする人間を、この上ない残酷な笑いで唐沢は追い詰めていく。

最新刊である第5巻には、そんな魔界入りしてしまったひとびとのお話も入っている。第52話「いばりんぼ」と第58話「うそつきくん」だ。
「いばりんぼ」の苔星ケンは、学生時代の友人、土用波洋と鉛棒寛一とともに漫画ユニット「INU-YOUKAN」を結成する。といっても実際は、合作チームを作っていた土用波と鉛棒の二人に、無理矢理苔星がわりこんだというのが正解。彼は漫画なんて描けないのだ。にもかかわらず編集者への「売り込み」担当として勝手に名乗りを上げる。そして二人の漫画が正当に評価されると、途端にいばりだすのだ。
「なー? 仕事きたろ? ちゃんと 俺が編集さんの心 つかんだ成果だぜこれはっ まったくそうだぜ」「いわばこれは俺の実力で勝ちとった仕事 第一号だからな」「おまえらそれにこたえていい作品描かなきゃダメだぞっ わかったか!?」
彼を見ていると、尊敬する故・赤塚不二夫先生のことを思い出す。全盛期の赤塚先生の漫画は、ブレーンの長谷邦夫、作画担当の古谷三敏、高井研一郎といった、優秀なスタッフによって生み出されたものだった。赤塚先生の役割は彼らをまとめて作品の方向を作るプロデューサーのようなものに近かったのである(元担当編集者の武居俊樹が書いた評伝『赤塚不二夫のことを書いたのだ』では、ほとんど作画にタッチしなかった時期があると明かされている。これも名著です)。これは余談になるが、赤塚先生が偉かったのは、スタッフを束縛しなかったことだ。古谷たちが一本立ちすればプロダクションの力が落ちると知っていながら、あえて自由にさせた。独立し、才能が開花するのをよしとしたのだ。たとえそのために、自分がジリ貧になったとしても。いばりんぼの対極にある姿勢で、私はそれゆえに赤塚先生を尊敬している。

「いばりんぼ」よりもさらに痛々しいのが、「うそつきくん」の主人公・門鳥ムツオだ。彼は子供のころから言い訳ばかりで努力をまったくせず、ついに嘘八百を並べ、漫画ファンを騙すような人間になってしまう。匿名掲示板に適当なことを書いて評論家づらをし、オフ会に顔を出して女性ファンを食い、というスカスカ人間のムツオを、実の母親が甘やかし続けるところにリアリティがあってむごく、笑いながらも暗澹とした気持ちになる(本編のラストは、『まんが極道』でも一、二を争うほどに後味の悪いものである)。
門鳥ムツオは一歩間違えば自分がなっていたかもしれない「暗黒面の私」だ。今後、仕事に疲れたり、ちょっと楽をしたいな、と思ったりしたときには、「うそつきくん」を読むことをお勧めする(まんが学部とかの副読本にすべきだ)。いくら虚業とはいえ、能書きばかり垂れて努力を怠っていると、誰でも門鳥ムツオになってしまう。空虚な自分の姿を隠蔽するために、嘘の上に嘘を重ね、自分ではない化け物になってしまうのだ。
あなおそろしや、おそろしや。
(杉江松恋)