「献血は無償のボランティアだ」とぼくたちは考えている。

“血液はすべて生体の機能成分として人体が生み出したものであり、売買や消費を目的としてつくり出された「生産物」ではない”と感じている。

だが、そうじゃないという主張もある。
血液は商品である、と。
血液が商品であるならば、臓器も、胎児も、出産も、遺伝子も、商品となっていくという危惧、およびそうなりつつある現実。
そういった人間部品産業の実態を、プロセス、裁判、研究などの事例を通してガッツリ紹介し考察した本が『すばらしい人間部品産業』だ。

著者はA・キンブル。
訳者は福岡伸一。
サントリー学芸賞&新書大賞を受賞しベストセラーとなった『生物と無生物のあいだ』の著者だ。

驚くよ。驚きの連続であった。
最初に紹介されるのは血液の例だ。

無償のコミュニティ血液銀行が、訴えられ、1963年に有罪となる。“血液という「物品」の取引を制限するような共謀を行った”として。

何度も上程し、争われる。
1969年の裁定で、“ようやく、独占禁止法や商法にとらわれることなく、自由に非営利的な血液だけを使えるようになった”。
献血の「無償性」は、さまざまな支援と闘争にによって獲得されていったものなのだ。

自分の血を売って起業したケースなんてのも登場する。
B型肝炎ウイルス抗体が血液中にあることが検査でわかったスラビン。血漿由来の病気を研究しているひとびとに、自分の血を売る商売をはじめた。
そして、血液企業家として、珍しい血液を販売する会社を設立するのだ。


血が商品ならば臓器だって商品だ、と考えを拡張していける。
「全脳死基準」で死を再定義したことによって、“臓器提供者として理想的な状態”が作られるようになった。
「死んだ」患者から動く臓器を取り出せるのだ。
もっと考えを推し進めると、ネオモートという考え方になる。
全脳死基準によって「死んだ」患者の延命装置プラグを抜くのではなくて、抜かない権利を黙認すればいい。
そうすれば「死者」は臓器摘出のために「生ける死体」「貯臓体」として「新鮮な死体(ネオモート)」でいつづけられる。

脳の高次機能を失った状態も法的な死に含めようという動きもあるそうだ。
永久的植物状態の患者を死者としよう、という考え方だ。
そうなると、ある種の新生児も死者となってしまう。
“無脳症の赤ちゃんが実際に死ぬ以前に、法的に「死んでいる」とみなして、臓器を有効利用しようではないかという動き”があり、1987年には、実際に無脳症の赤ちゃんから心臓を取り出して、移植手術が行われた。

「血は商品か」「臓器移植ビジネス」というケースからはじまって、本書は次々と、人体商品化の事例がエスカレートしていく様子を紹介していく。


「胎児マーケット」
白血病に冒されている十一歳のアニサちゃんに適合する骨髄を供給するだけの目的で身ごもったケース。
“これは将来「胎児飼育」のような事態が生ずる可能性を強く示唆している。もし、事前の検査で胎内のマリッサ君の骨髄が姉に適合しない型であるとわかっていたらどうなっていただろう。マリー夫人は中絶を行って、もう一度妊娠を試みるだろうか。姉に適合する胎児を身ごもるまでひょっとしたら何度でも……。”

「他人に差をつける薬」
成長ホルモンの二大メーカーが市場開拓する過程で、“背が低いのは一種の病気とみなしうる”と主張した。

身長が下位三パーセントに入る子供は正常とはいえないので治療が必要である、と。

「機械化された動物」
ブタの胚に、成長をコントロールするヒトの遺伝子を送り込んで誕生したブタ第六七〇七号。高速度成長ブタになって、畜産科学における技術的ブレークスルーを目指して作ろうとするが……。

「生命に特許を」
商品になるのなら、特許だってとれる。
ゼネラル・エレクトリック社と学者は、石油を分解する遺伝子操作微生物の特許を持っている。
微生物は“どちらかといえば、ウマやミツバチ、ラズベリーやバラというよりも、反応物や試薬、触媒といった無生物的化学物質に近い”ので、特許の対象となると法廷は考えた。
さらに一九八八年には生きているネズミに特許が認可される。“デュポン社は現在、商標名「オンコマウス(発がんマウス)」のもとに、世界初の特許動物を販売している。”

「人間性の独占」
一九九一年、“特許局は、何の操作も行われていない人体の一部そのものに特許を認可した”。
システミックス社が持っている特許は、ヒト骨髄「幹細胞」を単離する方法だけでなく、単離された幹細胞自体をも含むのだ。特許第五〇六万一六二〇号である。


いくつかの事例をピックアップしたが、これでは本書の凄さはカケラていどしか伝わらない。
事例の並びによって、読者は、じょじょに人間の商品化、部品化が拡張していく流れを理解する。血→臓器→出産→胚→赤ん坊→遺伝子→人間と商品化が拡張していく様子や、微生物の特許→遺伝子操作された動物の特許→ヒトの胚→幹細胞へと特許化が拡大されていく様子を歴史的俯瞰で眺めることができる。
じょじょに変移拡張し、いつしか奇怪な現実が成立していく現実の物語は、ある種のホラーのようにも思えてくる。
さらに生命の商品化にいたるまでの思想戦の歴史を圧縮して語る最終章が圧巻。
それまでの豊富な事例を受けて、生命倫理と商業主義/生命機械論/効率至上主義の歴史をイッキに駆け登る記述は、思考回路をチェンジする刺激にみちみちている。

福岡伸一の訳者あとがきを引用する。
“のちに、私が、生命の問題を考え、ものを書くようになった、その最も最初の喚起を促してくれたのが本書だった。
 生命を、機械論的な見方から、可塑的でより動的なもの、それでいて精妙な均衡を保つものとして、生命をとらえなおすこと。その重要さを本書は私に教えてくれた。それはとりもなおさず、この本が、極めて重要な生命の問題を、深い水深と高い解像度を保ちながら、極めて倫理的に、つまりリーダブルに書かれていたからだった”
 
どのケースも簡単に「こうであるべき!」と言えるものではない。
なんとしてでも愛する人を救いたいと思う気持ちは痛いほどわかる。「なんとしてでも」をどこまで拡張していいのか。生死を巡る究極のジレンマのようなケースが多々でてきて、マイケル・サンデルの『これからの「正義」の話をしよう』的にディスカッションすると盛り上がるのではないかと妄想するが、ヘヴィすぎてつらいかもしれない。(米光一成)