新宿鮫こと鮫島警部が初登場したのは、新宿の「その筋では有名な」サウナだった。
これ、みんなが忘れている事実。
鮫島が所属する新宿署ではなく、別の所轄から来た警察官が、若い男にむりやり言うことをきかせようとしていた(やーね)。そこに現れ、男の窮地を救ってやったのが、最初の登場だったのである。
鮫島の外観は、こんな感じに描写されている。
――三十六の鮫島は、実際の年より十近く若く見える。理由は、後頭部からえりあしの少し下にまでかかる長いうしろ髪だ。体にも贅肉が少なく、ほっそりとした印象を与える。
ほぼ毎日、ジョギングをつづけている成果だが、決して貧弱な体つきをしているわけではない。
その警察官にしてみれば、若く見える相手を舐めてかかったら、実は自分以上に危険な男だったというわけだ。こうして鮫島は、読者の前に姿を現した。1990年に発表されたシリーズ第1作『新宿鮫』のことである。作者の大沢在昌にとってはこれが出世作となった。吉川英治文学新人賞と日本推理作家協会賞を受賞、4年後に発表したシリーズ第4作『無間人形 新宿鮫V』では直木賞も獲得した。
大沢在昌を名実ともに人気作家の座へと押し上げた、記念すべきシリーズなのだ。

このたび刊行された『絆回廊 新宿鮫X』はシリーズ10作目という節目の作品である。ある密売人を鮫島が呼びとめ、職務質問をかけるところから物語は始まる。その密売人は、見逃してもらうためにある条件を出してきた。ある男が、「警察官を殺すため」という理由で拳銃を手に入れようとし、管轄内をさまよっているというのだ。顔の広い密売人でもその男には見覚えがなく、おそらくは長い刑期を終えて出所してきたという可能性がある。
警察官を狙った計画を未然に防ぐため、鮫島は捜査を開始する。その過程で、予想外の犯罪組織の存在が明るみに出るのである。

ここで読者の中には、質問をしたい人が出てくるはずだ。
「えーと、〈新宿鮫〉シリーズって前からタイトルは知っていて興味も持っていたんですけど、最初から読まないとダメなの? 前の9作を読まないと最新刊が読めないというんだと、かったるいというかめんどくさいというか……」
はい。いい質問です。たしかにそうだ。
小説は一冊ごとに独立した物語として楽しみたいものである。前の作品で「予習」をしないとダメ、というのはちょっと読者に負担がかかりすぎだろう。
『絆回廊』に関していえば、だいたい大丈夫。
第9作『狼花』からシリーズを読み始めると、登場人物の背景などによく判らない部分が出てくるかもしれないが(でも独立した作品として読むことはできる)、『絆回廊』ならばそういうことはない。えーと、具体的に書くと前作を未読の人の興を削ぐ可能性があるので、ちょっとぼかします。要するに『狼花』は、それまでの〈新宿鮫〉シリーズが模索していたあるテーマに一応の区切りがつけられ、主人公・鮫島が警察官としての生きる上での転機を迎えるという話だったのだ。
その後の話なので、『絆回廊』は、前の作品から引きずっている部分があまりない。かつ、前作では描き切れなかった、鮫島個人の人生にかかわる問題が書かれる話なので、一人の刑事が孤軍奮闘する話として、単独で読むことができるのである。強いて言うならば、第1作『新宿鮫』だけ読んでおけば大丈夫。ほとんどの人間関係はそれを読めば理解できる。いや、読まなくてもできるけど。

それでも不安、という人はいますか? あ、いるか。
では仕方がない。シリーズの基本設定について、簡単にここでまとめておこう。この程度の知識があれば、『絆回廊』を読むのにはまったく問題がない。いや、本当に。

(その1)キャラクター篇
『新宿鮫』で紹介されている、主要な登場人物について簡単に解説しておく。
主人公の鮫島は、警視庁新宿署の生活安全課(当初は防犯課)の刑事だ。階級は警部。鮫島はもともと国家公務員試験に合格した、いわゆるキャリアと呼ばれるクラスの警察官だった。キャリアは、警察官になると同時に警部補の階級が約束されている。鮫島もすぐに警部まで昇進し、さまざまなポストを巡りながら順調に出世街道を上っていた。だが、27歳のときに部下の絡んだ事件に巻き込まれて最初のつまづきを経験、さらに33歳のとき公安内部の権力闘争に巻き込まれ、事実上出世の道を閉ざされる。自殺した同僚が鮫島に託したある文書は「いつか警察機構を根底から揺るがす爆弾」であるため、彼に退職を強制するわけにもいかない。鮫島の処分に困った警視庁は、彼を所轄署に「島流し」にする道を選び、〈新宿鮫〉が誕生した。
鮫島がマル暴の刑事として厄介なのは、互いのメンツを立てるようなやり方を一切しないことだ。暴力団とつきあう刑事は、それなりに相手とうまくやっていく方法を知っている。誤解を恐れずにいえば、持ちつ持たれつの関係にあるからだ。そういう関係を鮫島は嫌っているし、心からヤクザを憎んでいる。
 孤立無援の鮫島だが、新宿署内に2人だけ味方がいる。直接の上司である生活安全課の桃井課長と、鑑識課の藪だ。定年間際で覇気のない態度に徹している桃井は、署員から「マンジュウ」というありがたくない異名を奉られている。マンジュウとは警察内の隠語で、死体のことである。しかしそれは世間を欺くための作戦で、正義漢の熱い魂が冴えない外見の下には隠されている。桃井は鮫島のために犯人を射殺したことさえあるのだ。窮地から救われて礼を言う鮫島に、桃井は一言だけ答えた。
「うちの課に、『マンジュウ』は1人だけでたくさんだ」
もう1人の協力者である藪は、ガンマニアで、それだけに銃創にはやたらと詳しいという人物。鑑識課員ということで普段は捜査の前面に出てくることはないが、ここぞというときにいい働きを見せる、渋い脇役である。
そして鮫島が唯一プライベートで心を許せる存在であり、最愛の恋人でもあるのが、ロックバンド「フーズ・ハニー」のボーカルをつとめる青木晶だ(名字は『無間人形』で判明)。初登場時の年齢は22歳。鮫島が36歳と紹介されているので、一回り以上の年の差カップルだ。重要な登場人物なので、晶については外見も紹介しておこう。
――目鼻だちのはっきりした顔には、気性の激しさがそっくり現れている。衣裳に必要以上のセクシーさを持ちこむことはないが、なみの格好で、じゅうぶんセクシーさを観客に感じさせるだけの体つきをしている。ときどき鮫島が冗談で「ロケットおっぱい」と呼ぶ、八八センチのバスとと六〇に満たないウエストがそれだ。しかもステージにあがるとき、晶はたいていノーブラだった。ブラジャーで締めつけていては、うまくシャウトできない、というのが理由らしい。

ロケットおっぱい。
ああ、ロケットおっぱい。

以前、この言葉の語源は『新宿鮫』なのではないかと思って調べたことがあったが、残念ながらそうではなかった(それ以前にも使用例があった)。しかし「ロケットおっぱい」という言葉を広めた第一の功績は、『新宿鮫』にあるといって間違いないだろう。それにしてもロケットおっぱい。男子として生まれたからには、一回り以上年齢が下の女子に向けて「ロケットおっぱい」と言える度量のある人間になるべきである。もちろん相手が望んでいなかったり、上司と部下という立場を利用しての発言ならば、セクハラ、パワハラとしてたちどころに告発されることになるのでご注意を。
えーと、キャラクターとしてはこのくらい知っておけば大丈夫です。『絆回廊』にはこの他に、鮫島のかつてのライバルとして香田という男が出てくるが、そういう男がいるんだ、ぐらいに思っていれば大丈夫。ライオン丸に対するタイガージョーみたいなものね。香田が何者かということは、シリーズを読んでいればそのうちに判る。

(その2)シリーズの流れ篇
ものすごく大雑把に書くと、シリーズは第1~5作までと、第6~9作、第10作という感じに分けられる。最初の5作は、ありとあらゆる悪を憎み情け容赦のない鮫島が、さまざまな難敵・危険な事態に遭遇し、それを乗り越えていく話だ。第2作『毒猿』は、ファンが好きな一作として上げることも多く、シリーズの人気を決定づけた大事な作品である。台湾からやってきた危険な殺し屋が暴れ回り(かかと落としで頭蓋骨を砕いたりするのだ)、愛用の特殊警棒を手にした鮫島が闘いを挑む。クライマックスの戦闘が新宿御苑というのがまたいいセンスで、どことなく『バキ』を連想させる。次の『屍蘭』は打って変わって静かなタイプの殺人者が登場、『無間人形』では恋人の晶の身が危険に晒され、『炎蛹』では直接戦うことができない「生物兵器」が鮫島の敵になる。こんな具合に、ある事件の顛末をはじめから終わりまで描く、という性格が強いのが初期の特徴だ。
第6作以降は、鮫島が〈新宿鮫〉として警視庁の中で孤立した存在であることや、警察と暴力団という運命的に相容れない2つの組織のありようなど、シリーズを通じて大沢が書こうとしたテーマが、さまざまなアプローチで書かれていくことになる。『氷舞』は比較的ストレートな謀略小説だが、『灰夜』は変型のタイムリミット・サスペンス、『風化水脈』は実録小説のような風合いを持つ重厚な作品、といった具合に、1冊ごとに作風が変化するのだ。ストレートなおもしろさなら第1期だが、作家としての技巧が凝らされた作品を読みたければこの第2期をお薦めする。そして第9作『狼花』は、そうしたすべてを吸収するような、作者畢生の大作だ。
こうした遍歴を経た後に、「鮫島自身」の物語に回帰した、『絆回廊』がシリーズ最新作として登場したわけだ。ここからまた、新しい〈新宿鮫〉が始まるはずである。未読の人はこの機会にぜひ、シリーズの魅力に接してみてほしい。
(杉江松恋)