大相撲関係のニュースを観ていたら、新入幕の宝富士(伊勢ヶ浜部屋)がマツコ・デラックスに酷似しているので「マツコ富士」に改名してはどうかという記事があってちょっとお茶吹いた。たしかに似ているわ。
マツコ・デラックスが男装したみたい。
二場所連続でTV中継もなかったし何か話題が欲しいんだろうな、というのは気持ちとしてよく判る。正式な本場所ではなく技量審査場所だったわけだが白鵬が7場所連続優勝を成し遂げ、今場所では史上単独首位の8連勝に記録を伸ばす可能性がある。明るい材料は山積み、といいたいところではあるが……。
何か、忘れちゃいないだろうか。
そう、社団法人日本相撲協会の土台を揺るがせた「八百長問題」である。
八百長だけではない、2007年に起きた時津風部屋での序ノ口力士暴行事件以来、大相撲ではロシア人力士らの大麻所持事件、朝青龍の一般人への暴行・引退事件、親方による暴力団への便宜供与事件、元大関をはじめとする力士や親方らの野球賭博関与事件など、不祥事が絶え間なく起きた。協会の対応のまずさもあり、ファンは大いに失望させられたものである。
このうち最近の八百長問題に関しては該当者が協会から追放されるなどの厳しい処分が下された。表面上は一応の片がついたように見える。しかし、そう言い切ってしまえるのだろうか。不安は大きく残る。
そもそも八百長の事実が明るみに出たきっかけは「野球賭博事件」に関与した力士の携帯電話に、不正を匂わせるメールの送受信記録が残っていたことだった。両方の問題に関与した力士は複数いたのである。関与したとされる人間を解雇し引退に追い込んだとしても根の部分にはまだそうした不正の残り火がくすぶっているのではないか。そもそも、日本相撲協会の意識は本当に改善されたのだろうか。
『大相撲は死んだ』の著者・中澤潔は否という。トカゲの尻尾きりを経ても、協会幹部や親方衆、力士たちの意識はまったく変わっていないというのだ。
悪しき因習を引きずったままで根本的な改革が行われるはずはないと中澤は断言する。
その中核にある病理の正体を一言でいってしまえば「金」だ。

今回発覚した八百長問題に関して、中澤は注目すべき点をキーワードとしていくつか挙げている。そこから、日本相撲協会の抱える病理へと切り込むことが可能なのだ。ここではそのうちの2点を紹介する。八百長の仲介役を務めた恵那司が、すでに出世の見込みを失っていながら現役にしがみつく「吹き溜まり力士」だったこと、八百長に関与したとされる中にモンゴル人力士が多数いたということだ。

「吹き溜まり力士」とは初土俵から10年以上がたって序二段や三段目あたりを行ったり来たりしているような力士のことで、彼らに出世の見込みは皆無である。そうした力士が存在する理由は、力士1人につき毎月決められた額が相撲協会から支払われるからである。本書によれば、その金額は以下の通り。

ーー幕下力士の場合、まず「力士養成費」が1人につき月7万円。それに「稽古場経費」が場所ごと(2ヶ月に1回)に1人5万5000円。そして「相撲部屋維持費」が、これも場所ごとに11万5000円。
つまり年間に7万円が12回と17万円が6回、合わせて186万円が黙っていても入ってくる。出世しない弟子でも多ければ多いほうが部屋にとってはありがたいというわけだ。

時津風部屋で「かわいがり」にあって死亡した少年も、何度かの脱走を繰り返していたほどで、相撲への情熱を失いかけていた。そういう若者に第二の人生を歩むように示唆するのも「親方」という指導者の責任であるはずだ。そうした視点を持たず、ただ人数を囲い込むことしか考えない体質を中澤は問題視している。
モンゴル人力士の問題も同様だ。
2010年8月に師匠から暴行を受けて引退を強いられたとし、芝田山部屋を相手取って損害賠償を起こした元十両・大勇武、同年9月に師匠に無断で引退届を出されたとして高島部屋からの解雇無効を訴える仮処分申請を行い、後に慰謝料を求める裁判を起こした元幕下・大天霄など、最近になって外国人力士と部屋のトラブルが頻発している。この遠因は、2002年に外国人力士の採用を1部屋1人に絞る方針が打ち出されたことだ。1部屋1人ということで、その外国人力士が伸び悩めばお払い箱にして次を求めようとする動きも出てくる。
 外国人力士の多くはもともと出稼ぎ感覚で日本に来ているため、解雇は死活問題となる。また十両から幕下に陥落すれば、手にできる金額も天国と地獄ほどの開きが出てしまう。だから不正な手段を用いても、せっかく掴んだ十両の地位に執着するわけだ。当然のことながら、こうして互いを利用しようと考えるだけの間柄では、師匠と弟子の正常な関係性が築けるはずもない。大麻吸引などの日本における犯罪行為に手を染める力士が出たり、本業そっちのけで本国のビジネスに夢中になるような横綱が出てしまったりしたのも、必然の結果だったのである。彼らの不品行の原因を民族問題にあると錯覚し、外国人であることが罪悪であるかのように批判した声は、物事の一面だけを見たものであったことが本書の記述でよく判る。そもそも個人の資質だけに還元するのは無理な問題なのだ。

著者の中澤は毎日新聞社で長きにわたって運動部記者を務めた人だ。それだけに舌鋒は鋭く、事象の裏に潜んでいる金の問題を明確な論理によって指摘している。その根底には、馴れ合いを配して批判を行い、相撲というジャンルの発展に尽くすことこそ記者の務めであるという当然の信念があるからだ。元双葉山の時津風親方(12代。前出の事件を起こした時津風親方は15代)は理事長時代、横綱の取組についてのコメントを出さなかったという。それは失礼なことであり、記者が無理強いをしようとすれば「批評するのが君たち(記者)の仕事だろう」と一喝されるのがオチだったという。協会は取組を提供し、記者がそれに批評を行うという両輪の関係が、かつてはしっかりとしていた。
現在ではどうか。2007年当時理事長を務めていた北の湖親方はそれまでの改革路線をすべて旧に復しようとした反動主義の迷理事長だったが、八百長疑惑の記事を掲載した週刊誌に対して訴訟を起こしたり、批判的な意見を言った記者から取材証を没収したりするなど、言論封殺を是とした人物でもあった。これは北の湖親方1人の資質ではなく、同調した相撲協会全体の姿勢の問題である。これには批評精神を忘れた相撲記者クラブ(日本に現存する最古の記者クラブでもある)が協会の言いなりになってしまったことにも問題があるとして、中澤は自己批判を行っている。敬意を払うべき態度だ。
中澤によれば、日本相撲協会にとっての最大の優先事項は、2013年11月に期限が迫った公益法人の申請である。公益法人と一般法人では税制などの優遇措置にはっきりとした差があるため、もし申請に失敗すれば莫大な額の利益が失われてしまうのだ。ここでもまた利権である。今の相撲協会の姿を知れば知るほど、利権のためにすべてを犠牲にしようとしているようにしか見えなくなってしまう。
こうした問題が、たかだか2回本場所を休んだ程度の期間で解決されるはずがない。半年振りの本場所開催は、すべての問題を棚上げにして強行されるのである。個々の力士の努力は素晴らしく、美しい。彼らを応援したいという気持ちはあって当然だ。だがその背景で、相撲という自称「国技」が容易なことでは快癒が難しい「拝金主義」という病魔を背負い続けているということを忘れないようにしなければならないと、本書は警鐘を鳴らし続けるのである。相撲を愛するすべての人に一読をお薦めします。
(杉江松恋)