『ねたあとに』。その奇妙なタイトルに惹かれて手にとった。
著者は長嶋有。『猛スピードで母は』で芥川賞を受賞した小説家であり、ブルボン小林名義ではゲームエッセイなども執筆している奇才だ。
いくらタイトルに惹かれたとはいえ、あんまり小説を読まないわたしがなぜこの本を買ったかといえば、カバーのあらすじにこんなことが書いてあったからだ。

「真夏の山荘で、小説家コモローとその仲間たちが夢中になる独創的なゲームの数々。麻雀牌がデッドヒートを繰り広げる『ケイバ』、サイコロの目が恋人のキャラクターを決める『顔』……。無意味とも思えるいくつもの遊びが、いつもの夏を忘れ得ぬ時間に変える」

ようするにゲーム小説なのだ。
ゲーム的な小説、という意味ではなくて、遊びとしてのゲームを採り上げた小説。物語の中にゲームが出てくる小説。登場人物たちがゲームで遊ぶ小説。ゲームを作ることを職業にしているわたしにとって、そういう小説なら無視できない。

主人公の名前はコモロー。コモローとその父ヤツオは、毎年夏になると仕事をおっ放り出して山荘にやってくる。
この山荘が小説の舞台だ。山荘の周囲には無造作な自然があるだけで、娯楽と呼べるようなものは何にもない。だから途轍もなく退屈だ。そんな退屈をどうやって紛らわせているかというと、いくつもの手作りゲームに没頭するのだ。
本作は連作短編集の体裁をとっており、山荘へ遊びにきた友人たちへひとつひとつのゲームを解説してみせる形で、それがどんな内容の遊びであるのかを明らかにしていく。

まず最初に登場するのは、麻雀牌を使った「ケイバ」というゲーム。

麻雀牌というのは全部で136個ある。それを伏せた状態でシャッフルして、タテ15個×9列に並べる。これを9頭の馬が1500メートルのコースに並んでいる状態に見立てる。そして余った1個の牌を表に返し、そこ書かれた数字(麻雀牌というのは、字牌を除いてすべて1〜9までの数字を示している)のコースに、その牌を表に返したまま押し込む。すると、その列(コース)の牌はトコロテンのように下から上へずいと押し出されることになる。そしてまた上に飛び出した牌の数字を見て、その数字のコースへ押し込む。
これを繰り返していき、いちばん先にすべての牌が表に返ったコースの馬が優勝、というわけだ。

その次に登場するゲームは「顔」。
これは、サイコロふたつを振ったときの出目によって、顔の「輪郭」や「目」「鼻」「口」「耳」「眉」といったパーツの形を決めていき、架空の人物を組み上げていくという遊びだ。ニンテンドーのMiiを思いっきりアナログにしたようなものだと思えばいいだろう。ただし、タイトルを「顔」と言っておきながら、コモローたちのゲームでは顔の制作に入る前に「苗字」や「生まれ」「年齢」「家族構成」「住まい」などを決めるところからはじまるのがおかしい。
ようするに「人間」を作っているのだ。


この遊びを製品にするのなら、サイコロを振って顔のパーツを決めていく部分こそがおもしろさの核になるだろうと思う。けれど、この遊びが単なる遊びではなく、とても奥の深い“人格の創造ごっこ”になり得ているのは、顔以前のこうした“出自を問う部分”に優先順位を与えているからだ。そのことは、作中でもコモローの意見として語られている。

わーい、ゲームが出てくる小説だー、という軽い気分で読みはじめただけなのに、この作品にはそうした文学的な表現が随所に盛り込まれていて、とても驚かされる。文学的も何も、芥川賞作家の本を手にしておいて何をいまさら、と笑われるかもしれない。でも、事実だから仕方ない。


4話目に登場する「それはなんでしょう」というゲーム。
これは、具体的な質問内容を伏せて、文末の「なんでしょう?」といった疑問系だけをぶつける遊びだ。参加者たちは質問の内容を勝手に推理し、それに対応した答えを述べていく。すべて出揃ったところで、本来の質問文と答えとを突き合わせ、そのギャップを楽しむというわけだ。
ここでも、重要な文学的表現が顔をのぞかせる。

山荘へ遊びに来たある人物が「どうしますか?」と問う。
これに対し、コモローは「そんなヤボなことを聞くなよ」と答え、他の参加者も「とりあえずインスタント食品を大量に買って当座をしのぐ」とか、「トイレにこもって善後策を考える」とか、「別になにも」とかいった答えを返す。ひとり、エミさんと呼ばれる参加者だけは「友達皆を呼んでパーティーをします」と答えた。
そして、問題全文が明らかにされると、それは「宝くじで三億円当たったらどうしますか?」というものだったことがわかる。一同は絶句する。唯一、この質問において正しいふるまいをしたのがエミさんだけだったからだ。このときの著者の言葉に、わたしはしばらくページを開いたまま手が止まってしまった。そこにはこんなことが書かれていた。

「どうしますか、というだけの問いに対し、エミさん以外はコモローも含めてネガティブな事象しか想像しなかった。この世界の、手で隠された部分というものに、思わず身構えたのだ」

いいでしょう?
この小説のこうした表現をわたしは「文学的」と書いたけど、訂正しよう。これこそが「ゲームデザイン」だと。
ゲームデザイナーは、遊び環境を構築することだけが仕事じゃない。その場で遊ぶプレイヤーの心理を先回りし、世界に穴が開いているのを見つけなければならない。見つけた穴はひとつ残らずつぶしておく。バグを取るってやつだ。世界には“手で隠された部分”があることを知っていなければならないのだ。

著者の長嶋有さんはエキレビ関係者とも少なからずつながりのある人物なので、作中にはゲームデザイナーの「ヲネミツさん」とか「相田カズトC」さんとか、なんだか耳覚えのある名前の人物が登場する。そのあたりの話をエキレビ編集部のチャット会議でしていたら、ヲネミツさん……じゃなかった、米光さんから驚きの事実を教えられた。

この山荘、実在するんだって!

というか、山荘が実在するだけじゃない。コモローは著者である長嶋有本人だし、その父として登場するヤツオは、文庫版の解説を担当した長嶋康郎氏だ(著者の父が解説を書いているというのも、よく考えたらすごい話だ)。
そして、これがいちばんびっくりしたんだけど、本書に出てくるゲームもまたすべて山荘とともに実在するという。そう、長嶋家とそれに関わる人々は、夏のあいだ山荘に集まっては、何もすることのない時間を自作ゲームに興じて過ごしている(現在進行形)のだ。

セミドキュメンタリーだったのか、この本は!

最後にもうひとつ、作中に登場する遊びを紹介しておこう。「ムシバム」という名のそれは、山荘の敷地内で見つけた虫の写真を撮り、ブログに掲載してインターネットで公開する、というものだ。虫のアルバムだからムシバム。
小説では、蛾やカマドウマの写真ばかりでなかなか蝶のような美しい虫が撮れずにドタバタするコモローの姿がおもしろおかしく描写されているが、まさかこれも……? と、あわてて検索してみたらホントにあるんで大笑いした!

「ムシバム2011」

長嶋有という作家、なんなんだろうか。
聞いた話では長嶋有漫画化計画というのもあるらしい。作家デビュー10周年を長嶋有本人が記念して(笑)、これまで発表してきた小説作品を有名漫画家たちに漫画化してもらうという、とても贅沢なプロジェクトだ。そして、そのなかには本作「ねたあとに」も含まれている。単行本の発売は3月17日。このレビューを書いている時点ではまだ入手できていないので未読だが、こちらもぜひ読んでみたい。
(とみさわ昭仁)