主演女優・沢尻エリカが、体調不良により映画のPR活動を休止していることや、週刊誌が彼女のスキャンダル記事を書いたことも手伝って「ヘルタースケルター」が話題になっている。

この映画は、全身整形をしてまでも美と幸せを手に入れようとする、主人公りりこの貪欲な生き様を描いたもの。


女優の周辺よりも、この映画の内容のほうが話題になってほしいところだが、今のところ、記事になるのは「大胆な濡れ場」とか「脱ぎっぷり」とかばっかり。
こんなご時世(どんなご時世だ)だから仕方ないのか。
いやいや、仕方なくなくない!
この映画の劇中曲として使われているのは「蛹化(むし)の女」(戸川純)だが、私は疑う女である。

この映画、いったいどうしたいの?と思って、プロデューサーのひとり甘木モリオ(以下甘木P)に会いに行った。

なぜ、この人に会おうと思ったかと言うと、自称「エロデューサー」(もちろんブラックジョーク)だから。女優が脱ぐ映画を何作も手掛けてきた甘木Pなので、この映画でもその腕をふるったのかしら?と思ったのだ。


しかし、その疑いはしょっぱなから粉砕されてしまった。
「へルタースケルター」はもうひとりのプロデューサー宇田充が進めていた企画で、沢尻エリカも宇田サイドでオファーをかけていたそうだ。
なあんだ。
帰ろう……
と思ったら、呼び止められた。
甘木P、映画「クローズド・ノート」のプロデュースもしていたのだ。
そう、あの名台詞「別に」を生み、沢尻エリカを美少女女優からお騒がせ女優に変えてしまった、あの映画である。


知らない人は少ないと思うが、
映画の初日舞台挨拶で、司会の質問に「別に」と無愛想に答えたことで、
世間からバッシングを受けたという出来事である。
「へルタースケルター」は、この5年間、女優活動が順風満帆にいかなかった沢尻の復帰作なのだ。

衝撃の舞台挨拶時、その舞台袖にいた甘木Pも驚愕したと言う。
「あちゃーと思いましたよ。作品の前評判は上々だったのに、その日を境に、ネガティブな印象がついてしまい、客足の勢いは失速した。
どういう状況でも、ああいう発言をするのは幼稚だと思う。
関係者にも多大な損害を負わせた。ファンの夢もブチ壊した。ただ、マスコミと世間があそこまで騒ぐことなのかとも問いたい。だって、あの時、沢尻エリカはまだ21歳だったんだから。それくらいの年齢の子なんだから、世間はもう少し寛容に接してもいいんじゃないのかな? 人間誰にだって過ちはあるものでしょう。
あれから5年、未だにマスコミや世間のバッシング体質は変わっていない。
なんとかならないのかと思う。本人、世間が思っているほど強くない。内面はとてもセンシティブなんですよ」

ふううむ。マスコミマスコミ言われてドキリとしたが、
「君たちみたいな映画ライターはマスコミっていうより(映画)マニアだから」と笑われた。なんだマニアって。「いいひと」が純然たる褒め言葉ではないのと似ているものを感じるが。

とまあ、その疑問はともかく、何かと群がって貪りくってポイしてしまう、世の中の消費体質は、いったいどうしたら直せるのだろうってことのほうが早急に解決したい問題である。

そんな話の中で合点がいったのは、甘木Pが過去に作った映画の傾向。
庵野秀明の初実写映画、村上龍の小説を原作にした援助交際する女子高生の話「ラブ&ポップ」、早世したAV女優・由美香のドキュメンタリー「監督失格」、そして、時代のアイコンとしてもてはやされるスターの葛藤を描いた「へルタースケルター」。
これらはみんな消費されていく女の子の映画だ。

「僕が作りたいのは消費されていく女性というより、消費されることに抗って、“どっこい生きて行く”女性の映画。女性は『美』を武器にして闘う戦士のようなもの。
今、もはや消耗品は男のほうでしょう。村上龍さんの本に『すべての男は消耗品である』という本があるけど」
と甘木P。
「ラブ&ポップ」は若い体を売ってる女子高生、「監督失格」は裸と濡れ場の演技力を売ってる女優が主役で、いずれも賞味期限のある自分の肉体をフルに使って生きていく女たちの瞬間の生の強烈な輝きと、その裏側の脆さや儚さをカメラに収めている。
あ。ひとつ符号があった。
「ラブ&ポップ」が発表された96年、「へルタースケルター」の原作は、20世紀末に出現したカリスマ漫画家・岡崎京子の手によって描かれていたのだ。

消耗品であるという自覚を語りつつ甘木Pは続ける。
「消費される映画ではなく記憶に残る映画を作りたい」
そして
「『へルタースケルター』では沢尻エリカはほんとに真剣に取り組んでいた。
ごちゃごちゃ言ってないで、とにかく一度観て」
と。

はい。そんなわけで映画「へルタースケルター」を一度観た話をします。

美が崩壊していくことに脅えながら、次第に転落していくスターりりこの物語は、芸能界の楽屋実話のようなくすぐりが随所にあって、ドキドキもの。
そこへ、りりこが美をキープし続けるために通う美容クリニックの違法行為を追っている検事が絡んできて、ミステリーとしても楽しめる。

美や幸福の追求という革命か。犯罪か。ギリギリの綱渡りをするりりこの姿を描いた世界観に、沢尻エリカはみごとに入り込んでいた。
りりこは整形で美を手に入れた設定だけど、沢尻は元々美少女だったから、りりこの業の深さは心底理解できないはず。
なのに、彼女は的確に、スーパー美人の皮膚の裏にある、弱くてダメな子ちゃんの表情をチラホラ見せる。
噂の濡れ場も、演技の演技(セックスだって自分の目的を果たすための武器のひとつ)をちゃんとしていて。いいね。

監督が蜷川実花だったことも、よかった。
彼女特有のこってりした美術やオシャレさがふんだんに。これは、デビュー作「さくらん」の時には、キレイだけど、盛り過ぎているだけのようにも見えたものだが、今回は、女の子が過剰なまでに自分を盛っていく様子と見事な相乗効果を生んだ。
過激に鮮やかであればあるほど、どこか悲しい感じがして。可愛いと可哀相がなんだか似てる感じで。いいね。

なにより舌をまいたのは、沢尻・りりこを取り巻く女優陣。
りりこの事務所社長の桃井かおり、「私たちは革命を起こしているのです」と煽る美容クリニック院長の原田美枝子、りりこの付き人の寺島しのぶ、りりこを追う検事の助手に鈴木杏、りりこを脅かす新人スターに水原希子。
彼女たちは過去、沢尻のように「脱いだ」とか「濡れ場」とかを話題にされているが、それを踏み台にして、軽やかに自分の道を生きているかっこいい女優たちだ。彼女たちは、消費されるどころか、逆に喰らい返して生きてるくらいだろう。
そろいもそろえたりと言うべきか。または、そんなところにまんまと食いつく人への皮肉と諧謔を感じて。いいね。

実際、桃井と原田のグレートお姉様方が、「私たち、昔りりこだった」というようなことを言っていたらしいが、りりこは、どの時代にも姿を変えて生き続けているってことなのかもしれない。
時代の変化と共にあっぱれ生き続けるものたちといえば、エヴァンゲリオンがヱヴァンゲリヲンに、Jホラーヒロイン貞子が3Dのおもしろキャラになったことを思い出してほしい。
りりこも、90年代半ばに発表された時は、お金にまかせて美しくなるという「消費の時代」の象徴となって生きたが、時代や環境が変われば、そのニーズに合わせていくらでも変わるのだ。
岡崎京子の漫画はそれをちゃんと描いている。

岡崎本人もある意味りりこみたい。80年代自販機本などのちょいエロ雑誌から活動をはじめ、サブカルの象徴だった宝島、恋とオシャレの象徴だったマガジンハウス、少女漫画世代のための大人女子漫画誌と、場所を変えながらもずっと時代の中心にい続けた。
そして「へルタースケルター」を描いた後、事故に遭い活動を永きに渡り休止。
それから16年。時を経て岡崎京子の描いたりりこは映画になって蘇ってきた。
そうだ、映画に使われている「蛹化の女」の元曲は大逆循環コード(先日、マキタスポーツがテレビでこれをヒット曲のコードだと解説していた。ちなみにマキタは「ヘルスケ」と同日公開の「苦役列車」に出演)の、パッへルベルのカノンではないか。この曲のようにりりこは循環しているのである。
つまり、不滅。永遠。
そしたら、人を叩くマスコミや世間の大合唱って負の循環コードだなあ。
んもう、まるっと納得。

さてさて。この終りそうで終らない女りりこを描いた映画「へルタースケルター」には2012年のりりこがいる。
それを明確にしたのは、水原演じるりりこのライバルに言わせた、原作にない、ある台詞。あれにはグッと来る。

美の追求、スキャンダル、女という生き物、消費文化……そんなのはデコレーションに過ぎず、そういうフェイクをすべて剥いだところに本当のりりこはいるのだ。
鮮やかに現代を映しながら、猛烈に時代を超えているりりこは、生命力そのもの。
生きてる限り生き抜きたい(バイ新藤兼人監督)、そんな感じ。

終りそうで終らない。天国と地獄の追いかけっこ。
まったく岡崎京子は大変な作品を描いたもんだ。
(木俣冬)