ツイッターで何十人、何百人という単位でRTを獲得することはなかなか難しい。140字のなかで言いたいことをびっちり書き切ったからといってRTされるとはかぎらないし、かと思えば、何気なくツイートしたものがRTを集めたりする。


ひょっとしたら、ツイッターで人気のある人というのは、そのキャラにもツイート自体にもどこか隙のある人なのかもしれない。わたし自身は、ツイッターで何か主張したいことがあっても、他人からツッコまれたり炎上するのを恐れるがあまり、ついつい持って回った言い方や角の立たない表現をしてしまいがちである。だが、RTされたることの多い人というのはそういうことをあまり恐れていないからこそ人気者なのではないか。つまるところそういう人のツイートというのは、フォロワーが勝手に解釈する(当然ながら誤解も含め)余地があるのだ。

なぜこんなことを考えたのかというと、千野帽子の『俳句いきなり入門』という本を読んだからだ。もっとも、この本にはツイッターの話は一言も出てこない。
出てこないけど、著者がこの本にあげている「モテる俳句」の条件というのは、RTを集めるツイートの条件とぴったり重なるような気がしたのだ。

《他人が反応・参加して場が盛り上がる句のことを「モテる句」と考えている。この「モテる」は必ずしも点盛りで高い得点を集めるということではない。ばあいによってはみんなに憎まれちゃう句でも、それで会話が盛り上がればモテる句だ。
 モテる人っていい意味での隙があって、人はその隙に吸い寄せられるものだけれど、モテる句にもそういう隙というか空白があって、そこで読み手に開かれている。ポエムがひとりごと(モノローグ――原文フリガナ)的に閉じているのにたいして、モテる句は対話(ダイアログ――同上)を構成する》


自らも「東京マッハ」という公開句会を主催する千野は、第1章の冒頭から《俳句では作者以上に読者の仕事が大きくて、自分の俳句を作ることよりも句会で他人の俳句を読むことのほうが俳句を支えている》《句の意味は作者が決めるものではなく、その場の優れた読み手たちが会話のなかで発見するもの》と言い切っている。
昨年6月の「東京マッハ」Vol.1(於・渋谷アップリンクファクトリー)では、千野がつくった「さかづきに金魚といふ名の肉を放つ」という句をめぐりこんなやりとりがあったという。

《金魚のぷるんとした感じが出てる、これって耽美な句なのか、それとも人間ポンプみたいな話なのか、などと私たちが壇上で言っていると、客席から「これって盃に赤い口紅がついたということなのではないか」という意見が出て、さらにべつのお客さんからは「絵付けをしているのでは?」と解釈、それにたいして米光一成が「だとすると赤江瀑の小説みたいな世界」と返す》

このように句をつくった本人は考えもしなかったことが、他人が読むことによってあきらかにされ、たくさんの意味が付されていく。これこそ句会の醍醐味だというわけだ。ちなみに引用文中に登場する「米光一成」とは、当エキレビ!でもおなじみの米光さんのこと。「東京マッハ」の第1回には、千野と米光のほか俳人の堀本裕樹と作家の長嶋有が参加している。

著者は本書のなかで、小気味いいまでに断言に断言を重ねる。
タイトルも『俳句いきなり入門』ではなく『俳句いいきり入門』のほうがよかったのではないかと思うくらいだ。なかでも「俳句は自己表現ではない」ということは、本書のあちこちで言い方を変えつつ繰り返し出てくる。何しろ《この本で言いたい最大のことは、「言いたいことがあるなら俳句なんて書くな」ということだ》というのだから。

あるところではまた、俳句は「自分をわかってもらう」ための手段ではないということが書かれている。《俳句では自分より言葉のほうが偉い》とも著者は書く。そこでお笑いとの共通点を見いだしているのが面白い。


《芸人がどんなに素敵な「自我」を抱えていたとしても、私たちは彼の芸を通じてしかその自我の姿を垣間見ることはできないし、芸が素敵なら彼の「自我」とは無関係に素敵な芸人なのだ》

そんなお笑いのなかでもとくに一発芸、それもモノボケ(用意された小道具を使って、即興的に面白いことを言ったり演じたりする芸)は俳句にもっとも近いという。これについて本書では、お笑いコンビ・ピースの又吉直樹の鼎談での以下のような発言を引きながら説明されている。

《モノボケにしても、これ(手元のペットボトル)を例えば「東京タワー」と言ったのでは見たままですよね。そこで「親分、今月分のお水です」とボケたら、その世界ではお水が何かそういうのになってんのかなということやから、また広がっていると思うんですよ》(「日経ビジネスオンライン」2012年3月23日

たしかに、ペットボトルをその形から「東京タワー」にたとえただけでは、おそらく話はそれ以上広がりようがないだろう。お笑いでいうところの「すべる」パターンだ。これに対して、「親分、今月分のお水です」というボケからはイメージが広がる。
ここから著者は、《全部言わない、一部分だけ言う、残りは自分で決めずに、観客・読者にゆだねる。モノボケも俳句も、自己完結していない。開放されている。対話なのだ》と両者の共通点をあげている。

そもそも俳句のルーツは、五七五のあとにべつの人が七七をつけ、さらにその七七にまたべつの人が五七五を……というふうに展開していく「連句」というゲームであった。明治に入り連句から独立したのが俳句なのだが、だからといって17音で言えることに限りがあることには変わりがない。
《俳句って「全部言わない」「完結しない」のが大事なの。というか俳句って、一部分だけ作って、残りの意味は連衆(句会のメンバーたち)に口頭で作らせるものだと思うんですよ。読む側から見たら、「残りの部分を作りたくなる俳句がいい俳句」という感じです》という著者の考え方はじつに明快だ。

こうした個人では完成しないという俳句の性格は、いわゆる近代芸術としての小説や詩作、絵画や彫刻とは異なるものだといえる。著者はまた、近代芸術と俳句との違いとして「型」の有無をあげる。五七五という音しかり、あるいは季語を一つ必ず入れるといった「型」が俳句には厳然として存在する。

季語については本書の第4章にくわしく書かれている。そこで著者は俳句をつくる際、季語は最後に選べという。いわく、とりあえず季語以外の部分をいくつも考えておいて、あとからそれにふさわしい季語をあてはめていくのが理想だというのだ。どうしてそれがいいのか詳しくは本書を読んでいただくとして、面白いのはその作業をDJになぞらえていることだ。《「季語」と「それ以外」という二枚のディスクを選んでつなげるDJ》、それこそが俳人だというのである。

俳句はお笑いでいうところのモノボケである一方でDJでもある。このほかにも本書では、「型」を取捨選択して、そこに創意工夫をつけ加えるという点で、歌舞伎や浮世絵、あるいはアニメやライトノベルとの共通性も指摘されている。いずれも、学校の国語教科書にはけっして出てこない俳句のとらえ方だろう。

風流だから、ひとつ俳句でもひねって……と歌ったのは吉田拓郎だが、この歌(「旅の宿」)に出てくる男はたぶん浴衣のお姉ちゃんと酒を飲むのに夢中で、本気で俳句をつくろうなんてこれっぽっちも思っちゃいないだろう。ちなみに、俳句は一種のゲームであり、けっして高尚で風流な創作行為ではないと主張する著者は、《俳句を「ひねる」と言う人がいるが、風流ぶりの極みですね。俳句を「ひねる」とかいう鈍感な奴は俺がひねり潰してやるからそのつもりで》とも書いている。俳句をつくるならひとりではなくみんなで、酒を飲むのは徹底的に句評を交わしたあとでのお楽しみ……というのが、あくまで本書の提案する俳句の愉しみ方なのだ。

というわけで、先生、わたしも句会がしたいです。(近藤正高)

※来る8月5日(日)、東京・荻窪ベルベットサンにて、千野帽子と歌人・枡野浩一両氏のトークライブが開催予定。
ただしすでに前売りは売り切れ、現在はキャンセル待ちだとか。キャンセル待ち希望の方はこちらのサイトから申し込みのほどを。
さらに参考までに、トゥギャッターでのまとめ「千野帽子×枡野浩一 初トークへの道(#千野枡野 ※随時更新中)」もどうぞ。