交響曲第1番『HIROSHIMA』や『鬼武者』など、過去18年間にわたって佐村河内守さんの作品として発表されてきた作品が、新垣隆さんというべつの作曲家の手になるものであったことが、2014年2月に発覚し、話題となった
これと前後して、公募美術展「全日展」で福島県をはじめ少なくとも13県の知事賞の受賞者が、架空の人物だったことが判明し、これもニュースになった。

朝倉かすみの長篇小説『てらさふ』(文藝春秋)は、いま話題の「ゴーストライター」にかんする小説だ。もちろん、話題に乗っかって書かれたものではない(雑誌連載は昨年9月に完結)。

『てらさふ』(古語。見せびらかす意)では、小樽に住む女の子二人組が、「執筆担当」と「ヴィジュアル担当」という役割分担で、史上最年少の芥川賞作家になることをめざす。
小樽のはずれオタモイの食堂の娘・堂上弥子(どうのうえ やこ)は、自分がWikipediaに項目として立てられたときのリード文案を夢想するような幼さを持ついっぽうで、中学1年生にして、つぎのような割り切った人間観を持っていた。
〈ひとは、みんな、つなぎ役だ。
〔…〕テレビや、映画や、歌や、ダンスや、絵や、小説や、写真のように、「なければずいぶんつまらないが、なくてもさして不自由はないもの」も同じ〉
こういう〈なければずいぶんつまらないが、なくてもさして不自由はないもの〉を、どの側面に焦点を当てるかによって「コンテンツ」と呼んだり「表現」と呼んだりする。
弥子は自分がなにかで世間に注目されることを熱望してはいるが、それがかなったとしても、自分が〈本物が出てくるまでのつなぎ役〉であるだろうと自覚している。むしろ、〈つなぎ役〉としていかに〈2010年代を疾走〉(弥子が夢想するWikipedia文面)するか、ということが、彼女にとって大事な課題なのだ。

彼女の学校に、札幌から鈴木笑顔瑠(すずき にこる)というキラキラネーム(というか無理ネー)の美少女が転校してくる。愛称はニコ。
ニコと16歳しか違わない母は早くに男と出奔し、ニコと37歳しか違わない祖母は、ニコと60歳違いの曾祖母に、12歳の彼女を押しつけるようなかっこうになった。

小説を読んでいくとわかるが、ニコの耳のなかではときどき、テンポが速くてパーカッシヴな〈音〉が鳴りはじめることがあるらしい。こうなるとニコは自分のリビドーを押さえられなくなるという。衝動的な行動に出てしまいそうな自分を、抑えられないこともある。
弥子とニコは手をたずさえて、自分たちの〈すごさ〉を世に知らしめるための計画を立てる。その第一歩は、小樽市の読書感想文コンクールだ。
題材にはジョージ・ソーンダース『短くて恐ろしいフィルの時代』(岸本佐知子訳、角川書店)を選んだ。
理由は、

〈このひとの訳した本は、間違いなく、へんてこなんだって〉

というニコの伝聞情報だ。
弥子がニコの名前で書いた感想文は、ニコの複雑な家庭環境(〈私には父がいない。生まれた時からいなかった〉)を織りこんだ、審査員殺しなもので、その〆の2文はこうなっている。

〈私は信じる。私たちは善なのだと〉

この感想文は小樽市のコンクールを最優秀で突破し、全道大会で知事賞を受賞、全国読書感想文コンクールでは文部科学大臣奨励賞に輝く。破竹の勢いだ。


表彰式の動画がYouTubeに上げられることを見越して、弥子はニコに姿勢や表情のトレーニングすら命じる。弥子はニコのルックスや家庭環境という「キャラクター」と「物語」を最大限活かそうとするのだ。
アーティストにせよ政治家にせよアスリートにせよ、キャラクターや物語をまったく無視して「仕事」だけを評価するというのは、なかなか難しいことだし、ひょっとしたら不可能かもしれない。
正体を明かさずに活動する覆面作家だって、その「正体不明」とか「隠している」ということが、強力な物語を生むからだ。

ちなみに交響曲第1番『HIROSHIMA』はWikipediaによると
〈2009年、芥川作曲賞の選考の際に、審査員の一人、三枝成彰がこの曲を推薦したが、受賞は果たせなかった〉。
芥川作曲賞は作曲家・芥川也寸志(1925-1989)を記念した音楽賞で、新進作曲家の作品を対象とする。
芥川也寸志は芥川龍之介の三男。
佐村河内さんの「広島被曝二世」「後天性の全聾」といった「キャラクター」と「物語」が、彼のCDのヒットの要因と言われていただけに、このいわゆる「ゴーストライター問題」は、ただ「代作だった」という以上の反響を生んだ。
弥子とニコのつぎの目標は小説家デビュー、そしてその先には芥川龍之介賞の受賞が目標として掲げられる。

芥川賞・直木賞は文藝春秋がいわば勧進元をつとめる、半年に1度の文学イヴェントだ。芥川賞候補になるのは、半年間におもに文芸5誌に掲載された小説だから、弥子は〈たったの百三十コから芥川賞の受賞作が誕生するらしい〉と当たりをつけ、〈感想文より倍率低いじゃない?〉と言ってのける。
言われてみればそのとおりだ。
にしても《別冊文藝春秋》はこんな乱暴な『てらさふ』をよくぞ連載したものだ。
もちろん、自分の過剰さを持て余す弥子も、欠落を抱えたニコも、それはそれとしてやっぱり10代の女の子である。彼女たちは自分自身をそうそういいつもうまくコントロールしおおせるとはかぎらない(大人だって難しい)。言うことを聞かない、いつ自分を裏切るか知れたものではない生身の心身で、だれだって生きていくしかないのだ。

ふたりは果たして作家デビューできるのか?
このあとの展開には触れないが、筆名〈堂上にこる〉の公募新人賞応募作「あかるいよなか」(400字詰換算118枚)が弥子によっていかにして「書」かれたか、という部分がすごい。この着想(弥子のというより、作者の)は絶妙だ。
村上春樹の『1Q84』(新潮文庫)では、美少女「ふかえり」のラフな原文を主人公の天吾が調整して「空気さなぎ」という小説にして芥川賞をムニャムニャ、という展開があったけど、『てらさふ』のふたりは世の中ともっと本気で勝負してます。ん? 世の中をもっとナメてます、と書いたほうがいいのか?
生身の佐村河内さんの指示書きをもとに新垣さんが作曲・オーケストレーションするという、「佐村河内守」作品の特殊な作りかたも、そのやりかたでしか生まれないものが生まれただけあってかなり興味深いものだったけど。

「文学とはなにか」「小説はいかにあるべきか」などといった小汚らしいことをいっさい考えずに、世間をあっと言わせたいという誠実無垢な欲求に突き動かされる弥子がとった「手法」もまた、文学史に新たなページを切り開く斬新な……。
いやあの。ボルヘスの短篇小説や奥泉光の『モーダルな事象 桑潟幸一助教授のスタイリッシュな生活』(文春文庫)の着想に似たメタフィクショナルな……。
というか。現代アートにおけるシミュレーショニズム、さらにはヒップホップやボーカロイドにつうじるかもしれないポストモダンな……。

ゴメンいまの全部忘れて! とにかく『てらさふ』を読んでください。
(千野帽子)