きょう8月6日、阪神甲子園球場で第97回全国高等学校野球選手権大会が開幕する。1915年に全国中等学校優勝野球大会として始まったこの大会は、今大会で100周年の節目を迎えることになる。


100年の記念大会を前に、早くも注目を集めているのが西東京代表・早稲田実業(早実)の清宮幸太郎だ。ラグビー・トップリーグのヤマハ発動機ジュビロ監督の清宮克幸を父に持つ清宮は、リトルリーグ時代から強打者として実績を残しているだけに、1年生ながら甲子園でも活躍するのではないかともっぱらの評判である。

早実・清宮は「アイドル」か「怪物」か


その清宮、校内では女子生徒によって親衛隊が結成されたとの報道もあったが(ソースは東スポ)、どちらかといえば彼は女性ウケするアイドルタイプというより、男ウケする怪物タイプではないだろうか。

歴史をひもとけば、かつて「甲子園の星」というと、尾崎行雄(浪商、大阪)にせよ江川卓(作新学院、栃木)にせよほとんどが怪物系の選手だったが、1970年代半ばにある選手の登場によって「甲子園アイドル」というカテゴリーが確立された……と指摘するのは、小野祥之・「野球太郎」編集部著『高校野球100年を読む』(ポプラ新書)だ。
早実・清宮は男ウケする怪物タイプだが、高校野球に“ルックス”という観点が加わったのはいつからなのか
小野祥之・「野球太郎」編集部『高校野球100年を読む』(ポプラ新書)

ある選手というのは、現・読売ジャイアンツ監督の原辰徳である。本書によると、現在も日刊スポーツ出版社より発行されている雑誌『輝け甲子園の星』の創刊号(1975年)では、当時東海大相模(神奈川)の2年生だった原が表紙を飾ったほか、誌面の多くが彼の特集で占められ、大きなポスターまでついていたという。本書いわく《つまり「甲子園の星」とは原辰徳のことだったのです。
『輝け甲子園の星』は原のアイドル人気が生んだ雑誌といってもいいでしょうね》


もっとも、本書でも言及されているとおり、甲子園のアイドルは原以前にもちらほらと存在した。たとえば、1969年の夏の大会で準優勝した三沢(青森)のエース・太田幸司。

太田は白系ロシア人の血を引く端正な顔立ちとどこか薄幸なたたずまいに加え、名門・松山商(愛媛)との決勝戦では延長18回0対0の引き分けの激闘の末、再試合で力尽きるというその劇的な展開もあいまって女性人気が沸騰した。準決勝の夏から半年後、太田が近鉄バファローズ入りを控えた1970年3月には『それいけ! 太田 報知グラフ・特別編』というグラフ誌まで発行されている。この雑誌の表紙は、太田の写真が浮かび上がる3Dのレンチキュラー仕様になっていたという。
本書の著者である小野祥之は野球専門の古書店「ビブリオ」の店主だが、その小野をして《こんな表紙の高校野球本を見たことがありません》と言わしめる。

さて、太田の夏から5年後、原辰徳の甲子園デビューによって確立された「甲子園アイドル」というジャンルは、1980年の夏の甲子園で準優勝した早実の1年生エース・荒木大輔の登場で頂点をきわめる。荒木が3年生の夏を終えた1982年10月には、学研から「高校コース」の別冊として『甲子園の恋人たち '82年夏・荒木大輔と25人のライバル』という本も出た。ターゲットが女子高生であることはあきらかだ。

1年生ですでに注目の的だった点は、荒木もその後輩の清宮幸太郎も共通する。が、清宮はやはりルックス的にアイドルとは言いがたい。


《甲子園アイドルになるには実力に加えてルックスが必要。ただ強いだけではアイドルになれません。ハードルが高いんです。ヒーロー路線の代表格は桑田真澄、清原和博(共にPR学園、大阪)、松井秀喜(星稜、石川)、松坂大輔(横浜、神奈川)でしょう。彼らのルックスがダメという話ではないのですが……》

21世紀に入り登場した選手でいえば、ダルビッシュ有(東北、宮城)はアイドル路線、田中将大(駒大苫小牧、北海道)はヒーロー路線に分類できるだろうか(おや、誰ですか、マー君はアイドルというよりアイドルオタクだろなんて言うのは)。ともあれ、女性人気を集める選手の登場は、高校野球に“ルックス”という新たな観点が加わり、ファン層が拡大したことを意味するのだろう。


百年の宿願……優勝旗が白河の関を越えるのはいつか?


本書では選手だけでなく、試合、地域、指南書、事件、歴史などさまざまな切り口から高校野球に関する本が紹介され、この1世紀の歴史をたどることができる。

清宮を擁する早実は、1915年の第1回大会に出場した10校の一つだ。最初の大会の出場校のうち今回の100年大会にも出場するのは、早実と初代優勝校である京都二中の流れを汲む鳥羽(京都)の2校のみ。いずれもまさに高校野球における伝統校のなかの伝統校なのだ。

しかし早実は第1回大会において番狂わせに遭遇する。本書の第2章を参照すると、このときの早実は、中学野球界ナンバーワンのバッテリーといわれた臼井林太郎―岡田源三郎を擁し、走攻守三拍子そろった強豪だった。
しかし準決勝で思いがけず敗退を喫する。相手は東北代表として出場した秋田中(秋田)。雪国の田舎チームで、試合経験も少ないからたいしたことはないと油断したのが敗因となったらしい。秋田中はこのあと決勝でも京都二中相手に予想外の接戦に持ちこみ、延長13回まで戦って1対2で惜敗している。

なお、春・夏を通じて高校野球での東北勢の優勝はまだ実現していない。それも第1回の秋田中の決勝での敗退から始まっていると思えば、「深紅の優勝旗が白河の関を越えるか」の決まり文句にはじつに1世紀にわたる宿願が込められているともいえる。


東北の人たちが地元校の優勝を今大会こそはと待ち続けているように、甲子園での高校野球ほど各地方の人々の期待が集まるスポーツは日本にはほかにないだろう。本書ではその構造を、甲子園を中心にしたツリー型とリゾーム型(横断型)の二重構造というモデルで説明している。

《甲子園出場を頂点にした縦の構造はまさにツリー型です。そしてツリーの地下茎が地中を横断するように、全国津々浦々で球児が甲子園を目指している、この横の構造がリゾーム型です。となると、多くの人の生活圏に「親戚の○○ちゃん」「近所の○○君」という甲子園を目指す球児が入り込むのです。その身近な存在を応援してゆく行為が、全国に網の目状の連帯を作り出してゆく。それが甲子園人気を支えているひとつの構造なのではないかと》

とはいえ、甲子園常連の強豪校の多くはいまや地元出身者だけでなくほかの地方からも優秀な選手を集めている。かつて1974年春の大会に名将・蔦文也監督率いる池田(徳島)がたった11人(つまり3人以上ケガをしたら試合が成立しない)で出場して準決勝まで進出したというような話は、もはや遠い昔の話だ。それでも、高校野球をめぐるツリーとリゾームという二重構造はいまだにゆるぎない。それこそが高校野球人気の根強さというべきか。

約50冊の高校野球の関連書をとりあげた本書では、各地方の野球連盟や野球部後援会、地元新聞社などによって編纂された連盟史・部史・地方大会史の類いも紹介されている。なかには手束仁著『都立城東高校甲子園出場物語~夢の実現~』(アリアドネ企画、1999年)のように、一介の高校野球ウォッチャーによる著作も登場する。こうした関連書の幅広さを見るにつけ、高校野球がいかに日本社会に根づいているかをあらためて実感させられる。
(近藤正高)