しかし、危険球におけるルールは別格で、たった1日でルール変更に至った。もっといえば、1球で変わったと言っても大袈裟ではない。
布石は前年に起きたデーブ大久保への死球
ルール変更のきっかけとなったのは1994年5月11日の巨人対ヤクルト戦。
実はこのカードでは前年の93年から根深い遺恨があった。きっかけとなったのは、デーブこと巨人の大久保がヤクルトの高津から受けた死球だったといわれている。これが原因となり、デーブは骨折。結果的にシーズンの大半を棒に振ることに。当時のデーブは巨人の中軸を担う選手であったため、余計に両チームの間にシコリが残る結果となった。
巨人とヤクルト 死球の応酬を続けた5.11決戦
そして1994年5月11日、ついに両軍の怒りは頂点に達する。その日のマウンドには、ヤクルト・西村、巨人・木田が先発するも、2回表、西村は巨人の村田(真)に対し側頭部へ死球を投じ、村田が負傷退場。両軍のムードは一変した。
そして3回裏、今度は木田が西村の左腰に死球を与える。まさに、報復と取られてもおかしくない行為だったが、審判の判断は「すっぽぬけ」だった。すると7回表、西村はグラッデンに対して、死球すれすれの内角球を投じる。
大乱闘の余波
乱闘の結果、グラッデンと中西は暴力行為で退場処分となり、西村は危険投球で退場処分を受けた。翌12日、事態を重く見たセ・リーグは緊急理事会を開き、「故意・過失を問わず頭部に死球を与えた投手は退場」という新たなプロ野球規約を定めたのである。
改定前は、頭部へ死球を与えた場合、その裁量は審判に一任されており、よほど悪質でない限り退場処分にはならなかった。ところが新規ルールでは、たとえどんなことがあろうとも、頭部への死球は一発退場と改正されたのだ。それだけ、5.11の乱闘事件はそれに値するだけの騒動だったといえるだろう。
長嶋茂雄・野村克也による舌戦は冷めず
試合直後の長島監督は、「統計をとったら、ヤクルトはああいうの(危険球)が一番多い」「目には目を」とコメントしている。一方の野村監督も、「西村のすっぽぬけは入団してからの一番の課題。だがあれが(グラッデンに投じた危険球)故意じゃなかったら、故意なんてなくなってしまう」と捲し立てた。それを受けた川島セ・会長は、長島および野村の両監督に対して、「発言に慎重さを欠いた内容があったことを注意した」と後日、電話で伝えたそうだ。
それを受けてか、危険球ルールの改正後、長島監督は「すっきりしていい。現場は賛同している」と態度を一転。
(ぶざりあんがんこ)