総合格闘技『RIZIN』で、ミルコ・クロコップが復活を遂げた。
世界に誇る日本の総合格闘技文化の盛り上がりは、ミルコの活躍と共にあったと思うファンは多いはずだ。
もちろん、筆者もその一人である。
ミルコの復活を感慨深く見守る中、ターニングポイントとなったあの試合が思い起こされた。それは、ミルコの運命はもちろん、格闘技界全体の流れすら変わってしまうほどの衝撃の一戦であった。

結果が出なかったミルコ・クロコップvs快進撃を続ける藤田和之


2001年8月19日。さいたまスーパーアリーナで、ミルコ・クロコップvs藤田和之の一戦が行われた。
この試合は当日3試合組まれた「K-1vs猪木軍」の大将戦といった位置付けだったが、これから始まる全面対抗戦の序章であり、藤田のための肩慣らし的試合と見る向きが大半であった。

当時のK-1四天王は、アーネスト・ホースト、ピーター・アーツ、ジェロム・レ・バンナ、マイク・ベルナルドであり、ミルコは一枚も二枚も格落ちするポジション。
1996年の初来日時は、バンナからダウンを奪っての判定勝ちと上々の結果を残しながらも、続くグランプリ開幕戦ではホーストに破れ一回戦敗退。3年のブランクを空けての99年には決勝まで進むも、またもホーストにKO負け。2000年に三度ホーストと対戦するも、盛り上がりに欠けたままに判定負けと、大一番に弱いイメージが付いてしまっている状況だった。

対する藤田は、“猪木イズム最後の後継者”として総合格闘技に順応したプロレスラーの強さを体現。PRIDEのリングで大物格闘家を次々と撃破し、新日本プロレスでもチャンピオンとなるなど、破竹の快進撃を続けていた。

ミルコの不利な状況は誰が見ても明らかだった


舞台はK-1のリングであったが、ルールはいわゆる「バーリ・トゥード(VT)」。つまり、寝技を含めて何でもアリの試合形式である。
立ち技専門のミルコが圧倒的に不利なのは誰の目にも明らかだった。
ミルコの体重98kgに対して、藤田は113kg。総合格闘技において10kg以上の体重差はとてつもないハンデとなる。しかも、ミルコはたった3週間の付け焼刃的なVT特訓を行ったのみ。初めてのVTとあって、その緊張は入場からも伝わってきたのだが……。

ミルコ・クロコップが39秒でまさかの劇的勝利!


しかし、ふたを開けてみたらまさかの展開が。
藤田渾身のタックルを驚異の反射神経で2度も切ったミルコは、3度目の低空タックルに合わせて、左ひざをカウンターでブチ当てたのだ。顔面にまともに喰らいながらも藤田はタックルでテイクダウンを奪うが、左目の上を激しくカットしており、大流血。無念のドクターストップとなり、1ラウンドわずか39秒でのミルコ劇的勝利となった。
試合後、ミルコは「あのカウンターは100%当たると信じていた」と語り、トレーナーも「6ヶ月もすれば、ミルコに勝てる選手はいなくなる」と豪語。この時点では、単なるビッグマウスと見る向きが多かった。しかし、時を待たずしてこの言葉は現実のものとなるのだった。

PRIDE・K-1で無敗を続けたミルコ


まずは、PRIDEの顔だったプロレスラー、高田延彦の右足のカカトを骨折に追い込み、当時の新日本プロレスのエース、永田裕志もわずか21秒で左ハイキック葬。

02年にK-1のリングに復帰すると、やはりプロレスラーの柳澤龍志に1ラウンドTKO勝ちを収め、K-1世界王者のマーク・ハントからも左ハイキックでアゴをブチ抜いてダウンを奪って判定勝利。

PRIDEのリングに戻ってのヴァンダレイ・シウバとのドローをはさんで、K-1のリングでは、翌年のグランプリ王者となるレミー・ボンヤスキーにパンチのラッシュで圧勝。
そして、国立競技場に集まった10万人の大観衆の前で、 “プロレス界最後の砦”桜庭和志と闘い、眼窩底骨折によるドクターストップで勝利。因縁の藤田のリベンジも退け、02年を無敗で締めくくる形となった。

当時は、PRIDEもK-1も話題の中心、興行の軸はミルコであった。ミルコの活躍に発奮した多くのK-1ファイターたちは総合のリングに登場し、苦杯をなめ続けたプロレス界は衰退の一途をたどることに。まさに藤田戦の勝利が格闘技界に地殻変動をもたらしたのだ。
もし、あの試合にミルコが負けていたら…。その後の格闘技界はどうなっていたのだろうか?
(バーグマン田形)

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