初詣ベビーカー自粛論争に見る、親は我慢という前時代的な“呪い”【勝部元気のウェブ時評】
画像は本文とは関係ありません

東京都板橋区の「乗蓮寺」が、初詣をする際にベビーカーを自粛するよう呼びかけた看板を掲示したことが、インターネット上で物議を醸して、Twitterを中心に賛否入り乱れて激しい論争に発展しているようです。

電車内で「迷惑だからベビーカーを折り畳め!」と文句を言う人が後を絶たず、折り畳まなくても良いということを周知するために国土交通省がわざわざ「ベビーカーマーク」を作って指針を公表したという話の時にも感じましたが、何とこの国にはベビーカーを嫌いな人が多いことでしょうか!

ということで、今回はベビーカー初詣自粛賛成の人々が書いている主要な意見に対して、私なりの反論を展開して行きたいと思います。


雑踏の中にベビーカーがあると危ない!?


ベビーカー自粛に賛成する理由として「初詣の雑踏の中にベビーカーがあると危ないから当然だ」という書き込みが目立ちますが、どうしてお寺の看板は車椅子等を対象にせず、ベビーカー限定にしたのでしょうか?

もちろん車椅子に乗っている人も自粛させるべきではないですが、ベビーカーだけがピックアップされることは、それだけベビーカーを排除しようという意識が強い人が多く、「クレームを入れる」人も多かったからでしょう。結局は危険性の問題より、嫌いという意識の問題だと思います。

確かに私も駅等でベビーカーに轢かれそうになったことは何度かあります。でもベビーカーを自粛するべきだとは決して言いません。というのも、悪いのはベビーカーを使う人ではなく、周りの状況を顧みずに乱暴に使用する一個人なのですから。全て規制しようという「ゼロサム思考」は、対策でも何でもなく、ただの事なかれ主義です。


初詣程度のリスクで親に口出す権利は無い


ベビーカー自粛に賛成の人には「ドミノ倒しになった時に子供が危ないから」という意見も多数ありましたが、そのような差し迫った危険が果たしてどの程度の確率で生じるのでしょうか? 大昔に多数の死者を出した弥彦神社事件(1956年124人が圧死)みたいな状況を想像しているのかもしれませんが、乗蓮寺の写真を見る限りそれほど危険性の高い混雑状況には到底思えませんでした。それに、事件にならないように初詣の時期にはしっかりと警察や誘導員が動員されているわけです。

世の中には子供を取り巻く様々なリスクがあります。たとえば、ホメオパシーを信じて子供が病気になっても病院に通わせない親、夏の暑い日に車の中に子供を放置してパチンコに行く親、「どうしてあんたって子は何もできないの!?」と子供の自己肯定感をゴリゴリと削る叱り方をする親のように、ダイレクトに子供の権利を侵害するもの、かつ重大な事故やダメージに繋がる蓋然性の高いものであれば周りや社会が親の方針に積極的に介入するべきだとは思います。

ですが、初詣に連れて行く程度のことであれば親の自由選択の範囲内であるべきで、他人がとやかく言うレベルではないと思うのです。

仮にある程度のリスクがあったとしても親が自らそれを避ける判断をしたほうが良いのか否かという話と、その場にやってきた親子に対して参加自粛を求めるべきか否かという話は、完全に別次元の問題です。親がどんな選択をしようとその場で彼等と空間を共有しているならば、子連れに対して配慮するのが共同体のスタンダードであるべきでしょう。自粛という形で排除するなんてもってのほかです。


一方で、様々なリスクを考慮した結果、芸能人カップルがベビーシッターを使って夫婦だけで初詣に行ったことをブログ等で投稿したらどうなるでしょうか? 今度は「子供を放置するなんて!」「親として失格だ!」と叩かれるわけですよね。


親は耐え忍ぶべきという前時代的な“呪い”


「初詣なんて必要不可欠なことではないのだから数年我慢すれば良いだけ」という意見も散見されましたが、初詣は日本人の4人中3人が参加する行事であり、日本の年中行事の中でも最も生活習慣の中に定着しているものの一つです。親になるとそれすらも自粛しろというのでしょうか? 

「親になるということは多少の我慢が必要だ」「犠牲を強いられることが親になるというものだ」と言われますが、そのような「親は子供のために耐え忍ぶべきである」という発想自体が、親を苦しめる「呪い」であり「神話」であり「幻想」です。そんなものに“憑依”されなくても十分子育ては可能ですし、むしろそのような呪縛から自由であるほうがより良い親子関係を構築できる可能性が高いのではないでしょうか?

昨年末は年間の出生数が100万人を切るという衝撃のニュースが飛び込んできましたが、耐え忍ばないと親になれない国で子育てができる人が右肩下がりで減っていくのも当然の成り行きと言えるでしょう。

むしろ、そんなに我慢が美徳だという感覚をお持ちなのであれば、ベビーカーが嫌な人のほうこそ子連れの人のために自分のベビーカーが嫌いな気持ちを我慢してみてはいかが?と思うのです。自分そっちのけで我慢することは子を持つ親に全てなすりつけようという発想は、単なるエゴに過ぎません。親というものは我慢の掃き溜めにして良い人たちではありません。


したいエゴよりさせたくないエゴこそ自己中だ


「幼い子供を連れてまで初詣に行こうとするなんて親のエゴだ」という意見もあるでしょうが、ベビーカーで初詣に行きたい人と、ベビーカーで初詣に来る人が嫌だから何かと理由をつけて排除したいという人のどちらがエゴでしょうか? 自分自身がしたいということと、他人にするなということ、どちらがより強いエゴイスティックな欲求かと言えば当然後者だと思います。

差別や人権侵害をしない限り基本的に個人の自由な選択が認められるわけで、他人の行動を制限しようという際には、それに耐え得る強い論理的正当性が必要です。ですが、これまで見てきたように、ベビーカー自粛賛成論は明確な論理的正当性が欠如しています。世界的に見ても自粛は異様です。

そのような意味で「クレーマー」なのは参拝したい親ではなく、ベビーカー自粛を求めるほうだと思いますし、その自己中心的な考えこそ、「お客様は神様」の精神の成れの果てだと思うのです。


親をバッシングする「マミーヘル」な社会


以上のように、全ての人とは言いませんが、ベビーカー自粛に賛成する人はとにかくベビーカーが大嫌いで、人様の子供が嫌いで、社会的弱者に配慮することが大嫌いで、耐え忍ぶ姿勢を少しでも欠けた親が大嫌いで、「ウチとソト」の意識が強烈で、それを正当化するために様々な屁理屈を総動員しているに過ぎないように感じました。

もちろんベビーカー自粛賛成論を展開する人の中には、子育てを経験した親もたくさんいるでしょう。
でも彼ら彼女らも自分も自粛したのだから後輩にも自粛を押し付けて当然だと考える「ハラスメント先輩」、もしくは耐え忍ぶ親を全うする自分はとても素晴らしくそうしない親はダメだという「マウンティング先輩」にしか感じませんでした。

なお、私には今現在子供はいません。正直、子供好きでも何でもありません。子供が迷惑だと感じることもゼロではないです。でも、子供をあやすこともあります。一線を超えない限り迷惑だと感じることがあっても我慢します。それは子供を支援しなければならない大人として当然の責務だから。そして人類社会が未来に続くメリットを私自身も共有している一人の人間だからです。

今の日本社会は明らかに子供や子育て世帯に厳し過ぎます。社会の一員として子供や子育て世帯を支援しなければならない責務を放棄し過ぎています。迷惑の名のもとにエゴに走った結果、共同体にとって大きな損失になる「コモンズの悲劇(=多数者が利用できる共有資源が乱獲されることによって資源の枯渇を招いてしまうという経済学における法則)」が、まさに今訪れようとしていると思うのです。
(勝部元気)
編集部おすすめ