最近、オールドファンを中心にそんな言葉をよく聞くようになった。
それ以降、侍ジャパンが常設化されると、チームの垣根を超えた選手の交流が盛んになり、オフの自主トレをともにするケースも増えた。そりゃあ人間なんだから顔見知りになったら、昔のように乱闘で殴りあうのは躊躇するだろう。
だが、実は90年代からすでに球団を超えた付き合いは存在していて、例えば1965年生まれ選手たちの「昭和40年会」という同世代の集まりがあった。古田敦也、池山隆寛、渡辺久信、山本昌、小宮山悟といった豪華ゴールデンエイジが集合。その様子は度々テレビの特番として放送されていたが、彼らビッグネームにどれだけ誘われても、頑なに参加を拒んだ選手がいることはあまり知られていない。
一匹狼だった吉井理人
それは昭和40年4月20日生まれの吉井理人(現・日本ハム1軍投手コーチ)である。自著『投手論』の中で吉井は、その理由を「自分の中に、球界にいる選手はみんな敵だという意識が強くあった」と告白している。
仲間として酒を飲んだり、ゴルフをすると次のシーズンに響く。相手が嫌がる内角にシュートは投げにくいというわけだ。当時ですら珍しい、昭和の香り漂う一匹狼。ひと呼んで「投げるスペース・ローン・ウルフ」。
いったい吉井理人とはどんな投手だったのだろうか?
「いつもキレてるヤバイ奴」近鉄時代の吉井
あの名球会投手・東尾修の出身校でもある和歌山県立箕島高校を卒業した吉井は、83年ドラフト2位で近鉄バファローズへ入団。すると5年目の88年シーズン、就任したばかりの故・仰木彬監督からクローザーに抜擢される。
この年から3シーズンで計59セーブを記録。吉井はあのロッテとの「10.19」川崎決戦や、翌89年の西武戦でのブライアント4打席連続アーチといった近鉄が最もギラギラしていた時代の抑え投手として君臨した。
当然、絶頂期の西武ライオンズに対しては常にギリギリのシュートマッチを挑み、相手4番バッター清原和博に対して「死球でブツブツ言うならもう一球投げたろうか」なんて狂犬発言をして、物議を醸したりもした。とにかく、この頃の吉井の印象と言えば「いつもキレてるヤバイ奴」。投手交代を告げられると、マウンドを降りる時にボールをボレーキックして2軍落ちというガチで危険な暴れ馬ぶりだった。
結局、先発転向後は鈴木啓示監督と衝突し、95年に30歳でヤクルトへトレード。だが、結果的にこの移籍が吉井の運命を大きく変えることになる。当時ヤクルト監督の野村克也との出会いである。
運命を大きく変えた野村克也との出会い
「ミーティングなんかアホちゃうか」と馬鹿にしていた男が、ノムさんの野球論に触れているうちに熱心にミーティングでノートを取るようになったという。ちなみに最後までノートを取らなかったのが長嶋一茂というノムさんお約束のネタは置いといて、クレバーさを身につけた吉井は見事、新天地で先発投手として開花。
時にベンチ裏で派手に暴れることも忘れずに3年連続二桁勝利を挙げ、97年オフ海外FA権を行使する。
アメリカ行きを決めた野茂英雄の一言
もちろんNPB複数球団の争奪戦に。その中でも熱心なのは、やはり巨人だった。ヤクルトでの年俸9500万円の吉井に対して、なんと4年12億円という破格の条件提示。
するとその様子を見た長嶋監督から「分かった。それなら私のポケットマネーでもう1億出しましょう」のありえへん一言。さすがミスター。近所の子どもに1000円のお年玉をあげる口調で1億円をぶっこんでくる規格外のスケール。65年生まれの吉井は、長嶋茂雄の現役時代をリアルタイムで知る最後の世代だ。憧れのONが自分のためにここまで言ってくれている、総額13億円やで、もう巨人に行こか……。
そう決めかけた時、酒の席で近鉄時代の盟友・野茂英雄が「ビビってないで、思い通りにやった方が後悔しませんよ」と元先輩の尻を叩いた。よし行くぞアメリカ。こうして、吉井はFA権を行使して、ニューヨーク・メッツへ入団する。FA権行使でのメジャー移籍は日本人選手として史上初めてであった。
しかもメディカルチェックで問題が見つかり、わずか年俸20万ドル(当時のレートで約2400万円)での再出発だ。
アメリカンドリームを手にした吉井理人
ロッテでも指揮を執ったボビー・バレンタイン監督の元、渡米2年目の99年には12勝を記録。リーグチャンピオンシップシリーズ第1戦ではブレーブスのメジャーを代表する右腕グレッグ・マダックスと投げ合った。凄い。なんてドラマティックな野球人生だろう。
劇場というより激情型クローザーとして近鉄で一時代を築き、監督とぶつかり移籍した先のヤクルトで先発投手として活躍。32歳で海を渡り、ニューヨークでアメリカンドリームを手にした男。
その後、吉井はメジャー3球団を渡り歩き、03年から日本復帰。オリックスとロッテで42歳まで投げ、日米通算121勝129敗62Sという成績を残し現役引退。日本ハムやソフトバンクで投手コーチを務め、14年には筑波大学大学院でスポーツ健康システムマネジメントを学んだ。
20数年前、「投げるスペース・ローン・ウルフ」と呼ばれたキレやすい若者が、いまやロジカルさと熱さを併せ持つ球界を代表する名コーチである。人生は分からない。
球界からある種の殺気が薄れつつある今こそ、吉井コーチには「90年代の吉井理人」のようなデンジャラスな若手投手を育ててもらいたいものだ。
(死亡遊戯)
(参考資料)
『投手論』(吉井理人/PHP新書)