1992年には、熱狂的ファンに支持されまくっていたチェッカーズが解散。
国民的人気バンドだったチェッカーズ
チェッカーズは1983年の『ギザギザハートの子守唄』でデビューすると、翌84年の『涙のリクエスト』のヒットにより、大ブレーク。一躍国民的人気バンドになった。
歌だけではなく、チェックのダボダボパンツというステージ衣装や、ボーカルの藤井郁弥(フミヤ)の前髪を長く垂らした“フミヤカット”も大きな影響を与え、80年代男子たちの流行スタイルとなった。
『ジュリアに傷心(ハートブレイク)』が1885年のオリコン年間1位の座に輝くなど、その人気を不動のものとした。
ソロ活動開始、フミヤの結婚…解散へのカウントダウン
だが、1987年に発売されたアルバム『GO』のころには、ソロ活動を始めるメンバーが出始めた。口火を切ったのは、フミヤの弟の尚之。つづいて、サイドボーカルの鶴久政治と高杢(たかもく)禎彦もソロでの活動を開始した。
さらに、チェッカーズメンバーとそのファンにとって一大事といえる出来事が起きる。それは1990年、フミヤの結婚だ。
相手は中学の同級生。ファンにとっては、結婚の発表に至るまで、長きにわたる交際が続いていたことも衝撃的だったようだ。
フミヤに続くかのように他4人のメンバーも相次いで結婚。やがてグループとしての活動は減っていき、ついに1992年10月、チェッカーズは解散を発表したのだ。
"暴露本"出版も……メンバー間で確執?
解散の理由として、様々な理由が挙げられているが、その一つには藤井フミヤと高杢との確執にあるようだ。
というもの、藤井フミヤの「解散宣言」に最も憤慨したのは高杢だそうで、後に出版した手記『チェッカーズ』で金銭問題など、当時のいざこざを暴露している。
そしてメンバー間の対立が露わとなってしまったのがドラムス担当のクロベエ(徳永善也)の死。この死去に際して、藤井フミヤらが「送る会」を開いたが、高杢と鶴久を発起人から外したのだ。これに対して高杢と鶴久が連日、テレビで批判するなど、当時は大きく取り上げられていた。
解散から25年が経過したが、今年6月のライブでフミヤが「チェッカーズの復活は難しい」と言及したように、再結成は難しいそうである。
(せんじゅかける)