2018年4月の開始を目指して行われた小学校道徳の教科書に関する初めての検定で、「国や郷土を愛する態度」を学ぶという観点で不適切だと意見がつけられて、パン屋の記述が和菓子屋に変更されたこと等が、インターネット上を震撼させています。


まるで敵性語の言い換えを奨励した戦前のよう


道徳教科書検定でパン屋を和菓子屋に!~愛国ではない歪んだナルシシズム~【勝部元気のウェブ時評】

まず、パン屋がNGで和菓子屋がOKだったことに対して、「まるで(敵性語の言い換えを奨励した)戦前のようだ」という声が多数あがっています。
 
文部科学省は、和菓子屋に訂正したのは出版社側であって文科省が指示したわけではないし、個別箇所ではなく全体の問題を指摘しただけだと主張しているようです。
ですが、検定意見を伝えて修正させた後に合格を出しているわけですから、出版社に「忖度してもらった」と見なすことが適当のように思います。

森友学園問題や教育勅語が話題を集める中で、教育の在り方に関して時代の針が逆行している大きな流れにあり、上記のような検定意見が出るのもその一環ではないかと感じた人も少なくないことでしょう。


和菓子屋にすれば郷土愛が育つと本気で思っているの?


また、愛国心・郷土愛を育むという目的のために、パン屋ではなく和菓子屋にするという手段を用いることの無意味さや愚かさに呆れ返っている人も多いようです。

子供たちを、パン屋を採用した道徳教科書を用いる授業を受けたA群と、和菓子屋を採用した道徳教科書を用いる授業を受けたB群に分けて、どちらがより愛国心・郷土愛が育成されたかを測定した際、そこに有意な差が生じるでしょうか? 

もちろんそんなことは無いはずです。教科用図書検定調査審議会委員はほぼ大学教授から選出されていますが、表面的な言葉にいちゃもんをつけていることがあまりに反知性主義的で、大変驚愕してしまいます。


パンも「和」だし和菓子も「洋」である


そもそも食文化というのは、外国との輸出入を繰り返し、技術や文化が交じり合って生まれるものです。ですから、「これは白であれは黒で」のような単純な二項対立概念で把握しようとすることや、当てはめようとすることは無意味に等しい。

たとえば、カステラは洋菓子だと思われがちですが、南蛮貿易時代に輸入された南蛮菓子をもとに日本独自に発展した和菓子です。言葉の意味としては明治以降に輸入されたものにルーツがあるものを洋菓子、それ以前に存在したものにルーツがあるものを和菓子と分けているわけですが、有史以降ずっと海外からの輸入は行われているわけで、あくまで便宜上の言葉に過ぎません。

また、パン屋も既に日本の文化に根付いているものです。あんパンのように日本独自のものがあります。生地自体がルーツであるヨーロッパのパンは日本のものに比べて硬いものも多いようで、日本のパンを知るヨーロッパ人の中には「日本のパンはパンではない!」と言う人すらいます。日本人が「カリフォルニアロールは寿司ではない!」と言うのと同じですね。


現代の愛国主義者の大半がただの歪んだナルシスト


私はグローカルグルメ(マイナーな国を含む世界各国または日本全国の郷土料理やB級グルメ)が好きで、地方に行く際にはほぼ必ず、その土地の郷土料理やB級グルメを食するようにしています。それを趣味の一つにしていると、食文化というのは他の地方や海外の影響、地形や気候や生活習慣の影響を受けながら発展するものということを、身を持って分かるのです。


ただ、その一方で大変素晴らしい食文化があるのにもかかわらず、マーケティングが下手なこと、危機意識の希薄さ、人口減少等の様々な理由により、衰退している食文化も少なくありません。パン屋がNGで和菓子屋がOKと表面的な文言で白黒判定をしているその瞬間にもどこかの地方で食文化の衰退が着実に進んでいるわけで、能天気な人々に対して私は激しい憤りを感じるのです。

この問題は何も食文化に限りません。「愛国心が大事!」「伝統が大事!」と声高に叫んでいる人たちはどれほど日本の歴史を把握し、生活に根差した細やかな日本の文化にどれほど興味を持っているのか甚だ疑問に感じています。

私の日本史の知識など所詮大学受験の際に山川出版社の日本史用語集を一通り丸暗記した後にいくらか付け加えた程度しかないのですが、その範囲の出来事や文化すらも机上に乗せて議論しようとはせず、南京大虐殺や靖国神社のような自分の興味をある部分だけを切り出して(酷い場合は勝手な修正解釈を加えて)は、それに対する意見の賛否だけで愛国心があるか否かを判定しようとします。あまりに認知構造が単準過ぎるのではないでしょうか? 

結局のところ、彼らは日本の文化が好きなのではなくて、自分が勝手に「これぞ日本の文化だ!」と認知している範囲のもののみに対して賛美をするだけ。そんなものは愛国心でも郷土愛でも何でもなく、単なる歪んだナルシシズムだと思うのです(ナルシシズム自体が悪いわけではないが他者を見下し批判するために用いるならば社会にとって有害)。



人権項目の無い道徳は権力者の支配ツールに成り下がる


今回の検定意見に関しては、パン屋がNGで和菓子屋がOKだったことばかりが注目されがちですが、感謝する対象として指導要領がうたう「高齢者」を含めるためおじさんがおじいさんに修正される等、他の修正項目も頭が痛くなるものばかりです。

そもそも検定の22項目に「人権」の項目がありません。なぜこの社会に道徳が必要かと言えば、一番はお互いの人権を侵害せずに共存できる空間を作るために必要だからだと思うのですが、肝心の部分がスッポリ抜けているわけです。

一方で、「礼儀」「思いやり・感謝」「感動・畏敬の念」「家族愛・家族生活の充実」「勤労」のように、道徳を「相互の人権侵害を防ぐためのツール」ではなく、「個人に対する共同体による支配のツール」にも引用が可能な項目のみがズラリと並んでおり、俯瞰すると戦前の「修身」思想のような気持ち悪さを感じても不思議ではないと思うのです。22項目自体を見なす必要があるでしょう。


まずは子供に対する大人の不道徳をどうにかするべき


また、今の若者世代に不法行為に走る暴走族もほとんどいなくなりました。
近年駅や電車内等の公共の空間でトラブルを起こす人やマナー違反を繰り返す人は、若者よりも圧倒的に中年以上の人々や高齢者です。

年齢が下れば下るほど、国の方針を決定している世代の人たちよりも何倍もモラールを守った行動ができているわけですから、今この時代に道徳教育を正式な教科として格上げすることに疑問を感じざるを得ません。「子どもたちに道徳を教えるよりもまずは大人に教えるべきではないか」と感じるのは私だけでしょうか?

さらに、大人たちは子供たちに対して様々な不道徳行為を行っています。ハラスメント、暴力、虐待、自己肯定感を毀損する言動、性的搾取と性的消費、ジェンダーロールの押し付け等、例をあげれば枚挙にいとまがありません。マクロレベルにおいても、格差社会の押し付け、1,000兆円を超える借金の押し付け、年金給付に関する世代間格差、先進国最低の教育への公的支出等、この国は「子供に対する大人の不道徳」だらけです。

それらを放置して自分たちができていない道徳的行動を子供たちに平然と押し付けて、恥ずかしいと思わないのでしょうか? 道徳教育を推し進める政権やその支持者に問い質してみたいところです。
(勝部元気)
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