今にも降りそうな曇り空の下、力なく鳴く蝉の声……。

ここ最近、東京ではこんな日が続いています。
気象庁の調べによると、都心では8月1日から21日にかけて、21日間連続で降雨を記録したのだとか。どうりで日の光が少なく、早朝などは肌寒さすら感じるわけです。

記録的冷夏だった1993年の夏


さて、“冷夏”といって思い出されるのは、今から24年前の1993年。

この年の夏は、今夏に勝るとも劣らない記録的な冷夏でした。原因とされているのは、1991年6月に起きたフィリピン・ピナトゥボ山の噴火。20世紀最大級ともいわれるこの大噴火により、地球規模で太陽光が減少。全世界の平均気温が約0.5度も下がったのです。

その影響もあって日本でも、1993年・夏の平均気温が2~3度ほど低下。また、梅雨前線の長期停滞に伴う長雨と日照不足のため、国内におけるコメの育成不良を招きます。
結果として、1000万トンの需要(当時)に対し、収穫量が800万トン以下という深刻なコメ不足に見舞われたのでした。

細川内閣がタイ米の輸入を決定する


こうした状況を受けて、時の細川内閣は9月、「タイ・中国・アメリカから260万トンのコメを緊急輸入する」と発表。当初の目論見としては、比較的日本米に似ている、アメリカ米と中国米をメインに据える予定でした。
が、輸入量が不足していたために断念。結局、タイ政府が日本の要請にいち早く反応したこともあり、日本米よりも細長くて食感も独特なタイ米を、主食用に流通することになったのです。


タイ米は、日本米とまるで違います。日本式の炊飯器や調理方法にも適していません。さらに当時、国内のブランド米人気が高かったため、「輸入米=粗悪」と見なされ、せっかく大量輸入したにも関わらず、消費者から忌避されたのでした。

「タイ米の米袋から錆びた釘が発見された」そんな報道がされたことも、日本人のタイ米離れを深刻化させた一因といえるでしょう。

ペットボトル入りの日本米が売られていた


タイ米に拒絶反応を覚えた人たちは、日本米への思いを募らせていきます。買い溜め&売り惜しみにより、ただでさえ市場に出回らなかった日本米が売り出されると分かると、販売元の小売店には長蛇の列ができたものです。

また、コンビニ・スーパーなどでは、通常時にはない1キロの袋入りやペットボトル入りなどが販売され、これも飛ぶように売れました。

城南電機の宮路社長、ヤミ米を激安価格で販売


消費者の動向に呼応し、普段であればコメとは無関係の事業者も、日本米の買い付けに奔走します。その代表例が、『浅ヤン』でお馴染みだった名物社長・城南電機の宮路年雄。

「日本人は日本の米を食いたいんじゃ!」と息巻いた彼は、あきたこまちのヤミ米を独自ルートで買い付けると、購入金額の半額という破格値で売り出します。もちろん店頭はパニック状態となり、行政指導も受けていました。

タイ米フューチャー回を連載した『美味しんぼ』


せっかくタイ米が大量にあるのだから、少量の日本米を奪い合うのではなく、有効活用しようじゃないか……。そんな向きもあり、タイ米の特徴を活かした料理(カレーやパエリアなど)を提供する外食企業が次々と登場。セブンイレブンでは通常の弁当よりも安価な「ジャンバラヤ」などが販売されました。

加えて、グルメ漫画『美味しんぼ』では、「タイ米の味」というタイ米フューチャー回を全4話にわたって連載。
いまいち人気のでなかったタイ米を啓蒙すべく、山岡士郎が一肌脱いだというわけです。

今夏の気圧配置は、1993年に似ているとも…


この狂乱の平成・米騒動も、猛暑と豊作を記録した1994年秋口には、一気に沈静化します。これにて、めでたしめでたし……といきたいところですが、気の毒なのは、タイ国民。大量に米を輸出したおかげで国内の米価が高騰し、貧困層の中には飢餓に苦しんだ人も多数いたといいます。
その一方で、日本で売れ残ったタイ米は次々と廃棄されていきました。なんともやるせない話です。

今夏の気圧配置は、1993年と非常によく似ているといいます。果たして、これが米の収穫量にどんな影響を与えるのか……。一消費者として、24年前のようにならないことを祈るばかりです。
(こじへい)
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