かつて、90年代前半から中盤の球界において、「親分」人気は凄まじかった。

日本ハム監督を務めた故・大沢啓二の愛称「親分」は、なんと93年ユーキャン流行語大衆語部門で金賞を受賞。
94年には都内の家庭教師約1000人が投票した『家庭教師が選んだ理想の家庭教師像』というなんだかよく分からない賞にトップ選出。
95年には『日本メガネベストドレッサー賞』にも輝き、さらに理想の上司像として『「人たらし」の管理術 どんな部下でも動かせる<オレ流>心のつかみ方』や『大沢親分のちまちま言うな上司! この肚のすえ方を持っているか』といったビジネス系の著書を立て続けに出版する空前の親分ブームが到来していた。

長嶋茂雄を勧誘した大沢啓二


まさに60歳を過ぎてから野球人として絶頂期を迎えた大沢啓二は1932年神奈川県生まれ、立教大学野球部で活躍後、56年に南海ホークスへ入団。

ちなみに立大ではあの長嶋茂雄や杉浦忠を2学年下の後輩として可愛がり、二人を南海に勧誘するが、スーパースター長嶋は「申し訳ありません」と大粒の涙を流しながら謝り、直前で巨人へ。
これには大沢だけでなく、すでに57年にはホームラン王に輝くなど南海の主軸として定着していた野村克也も肩すかしを食らった格好になり、のちにその因縁が長嶋巨人と野村ヤクルトのバトルへと繋がっていく。

39歳の若さで監督に


大沢は好守がウリの外野手として南海で9年プレー、東京オリオンズ(現千葉ロッテ)に移って選手兼任コーチをやったのち、引退後は2軍監督も経験。71年シーズン途中から39歳の若さで1軍監督を務め、最終的に2位で終える手腕を発揮した。

しかし翌72年には下位に低迷し解任。
後年、大沢は自著の中で「理想を言えば、コーチ経験がちょっと短かったかもしれない」と謙虚に告白。ただ「コーチをやっていた頃から、コーチには向いていない、やるなら監督だと思っていた。その器だったから、と言うと手前味噌になるが」なんつって親分節もしっかりかましている。

それから評論家生活を経て日本ハム監督へ。76年から84年までの9シーズンでリーグ優勝1度、Aクラス6度と日ハムの名物監督として活躍したのち(84年には一時フロント入りするもチームの成績不振に再登板)、85年から92年は球団常務を務めた。

日本ハム王監督? 二度目の監督就任の舞台裏


そして、日ハムで二度目の監督就任の舞台裏は興味深い。92年、なんと大沢は球団常務として、あの王貞治に日ハム監督就任オファーをしていたのである。


このシーズン、故・土橋正幸監督が現場で不評を買いわずか1年で解任。後任として大沢が目をつけたのが、当時巨人監督の座を退き少年野球の伝導師として各地を飛び回っていた王の存在だった。
しかし、自宅に招き誘ってみるも王は最後まで首を縦に振ることはなかった。結局「もう一度大沢常務にやっていただいたらどうか?」という周囲の声に応える形で再登板。1年やったら今度こそ王に来てもらおうという軽い気持ちで引き受けたら、その王は94年オフにダイエー監督に就任することになる。

もしもこの時、大沢プラン通りに王が日本ハムのユニフォームを着ていたら、その後の球界勢力図は大きく変わっていたのではないだろうか。


現場復帰した61歳の大沢は黄金期真っ只中の西武に対して噛み付く。「西武の野球はつまらん。プロ野球は勝ちゃいいってわけじゃないだろ。なんであんなにバントばかりするのか分からん。今の俺は鬼退治に出かける桃太郎の気分だよ」と森西武を挑発。

自チームがバントをして突っ込まれると「バントせんとは言ってない。
無駄なバントが多いんじゃないかと言っただけだ。バカヤローが」
なんて“バント論争”を巻き起こすが、これは注目度の低いパ・リーグに西武vs日ハムの因縁アングルを持ち込むことで盛り上げようとする大沢流の演出だった。

このマスコミを上手く使うスタンスは同時期にパ・リーグで活躍した仰木彬監督と通じるものがある。

土下座の謝罪も話題に


93年ペナントレース、前年5位だった日ハムが最後までリーグ三連覇中の西武と優勝争いを繰り広げ、8月22日には東京ドームで首位の西武に3連勝。ゲーム差0.5に詰め寄ると、24日には近鉄に勝利し日ハムが首位に立った。
打線はマット・ウインタース(現日ハム駐米スカウト)とリック・シューの両助っ人にキャプテン広瀬哲朗が牽引。
投手陣はエース西崎幸広を中心に前年のチーム防御率4.20から3.37へと改善させた。しかし、9月10日からの西武球場での天王山で負け越すと、最後はわずか1ゲーム差で涙を飲む。

翌94年は一転して最下位に沈み、責任を取りユニフォームを脱ぐことを決めた大沢監督は本拠地最終戦でファンに向けて土下座で詫びたのが話題となった。

2度の監督就任、さらにフロントと計19年間を日本ハムで過ごした野球人生。常務時代に力を入れたのが12球団ワーストとも言われた練習環境の改善だ。
当時、日本ハムの多摩川グラウンドは老朽化で水はけは悪くトイレもボロボロ、他球団の2軍からは「日ハムの多摩川グラウンドではやりたくない」なんてクレームを入れられる始末。


ここで大沢親分は立ち上がる。「球団を持って、イメージアップやPRにしようと考えるなら金を惜しんじゃいけない」と本社と交渉。その甲斐あり、土地買収費を含め総工費約130億円を投じ、千葉県の鎌ケ谷市に2軍練習場が建設された。大沢親分も自著の中で、「この鎌ケ谷球場だけは、大沢の置きみやげと思ってもらえればありがたいね」と書き残している。

2010年に78歳でその生涯を閉じたが、今も「大沢の置きみやげ」は日本ハムの選手育成のベースとして機能している。


(参考資料)
『「人たらし」の管理術 どんな部下でも動かせる<オレ流>心のつかみ方』(大沢啓二/徳間書店)
『週刊プロ野球セ・パ誕生60年 1993年』(ベースボール・マガジン社)