弔辞というのは、先立った者と残された者、2人が共有してきた喜怒哀楽の思い出がわずか数分の間で情緒豊かに表現されるもの。そのため、聴衆の心をつかんで離さない強烈な美しさがあります。
今回は有名人の名弔辞シリーズ第1弾として、2009年、浅丘ルリ子が大原麗子へ向けた弔辞を2人の関係性と共に振り返っていきたいと思います。
大原麗子「私を浅丘さんの妹にして」
大女優2人の出会いは、1976年ごろ。とあるテレビドラマで共演したのがきっかけでした。浅丘は大原の6つ年上で、キャリアも10年上。そのため、大原は浅丘を姉のように慕い、「麗子を浅丘さんのうちの家族にして。一番下の妹にして」とお願いしてきたそうです。
浅丘の性格は、典型的な姉御肌。貧乏な若手俳優を家に招いて食事を振る舞うような面倒見の良さと、ルール違反とあれば、たとえ先輩俳優であろうが毅然とした態度で接する厳格さを兼ね備えていました。そんな裏表のない性格ゆえ、多くの仕事仲間から愛されていたようです。
一方の大原はというと、極度の"甘えん坊"。ファザコンでもあったという彼女は、包容力があって頼りがいのある浅丘に、母性と父性の両方を見出していたのかも知れません。
家族の死に際にも立ち会った
「家族にして」の言葉通り、大原は本当に浅丘ファミリーとも親密に関わり、浅丘の父・母・姉の死に際にも立ち会ったといいます。以下は弔辞の一部抜粋。
特に父の最期には、ベッドに寄り添って「お父さん、お父さん」と、顔をなでてくれた優しい麗子を忘れません。
人のためにも自分のことにもよく泣く大原を、浅丘は実の妹のように可愛がり、お正月から花火大会、お互いの誕生日、さらには甥や姪の結婚式まで、さまざまな場面を共に過ごしたそうです。
一時は絶交状態になった二人
そんな仲睦まじかった2人も、大原が死去する数年前からは、疎遠になっていたといいます。原因は、大原から浅丘への一方的な長電話。深夜2~3時ごろにかけてきては、不平不満を延々と聞かされたそうで、最終的には浅丘が「もう話したくない、絶交する!」と突き放したのだとか。
私だけではなく、あなたを大切に慈しんでくれた身内の方、友人たち、すばらしい仕事仲間たちの行為を一切受け付けず、拒否し続けるあなたの気持ちが私には分かりませんでした。
弔辞の中でも、困惑した当時の気持ちを述べています。
久しぶりの訪問……怒りながら泣いていた大原
絶交状態が続いていた2008年。浅丘は、大原が自宅で転倒し、右手首骨折の重傷を負ったことを知ります。老齢で一人暮らしの妹分を心配し、自宅まで尋ねると、浅丘の顔を見るなり飛びついてきた大原は、「なんで浅丘さんすぐに来てくれなかったの!浅丘さんが来てくれるのずっと待ってたんだから!」と、玄関先で尻もちをついて怒りながら泣いていたとのこと。
浅丘は大原の肩を抱きながら、彼女がどれほど深い苦しみと悲しみにさいなまれていたのかを、思い知らされたといいます。
突然の死に茫然とする浅丘
それからわずか数ヶ月後。突然の訃報が飛び込んできました。大原麗子 孤独死。浅丘はその事実を受け入れることができず、ただただ茫然。初七日に何も言わずに逝ってしまった“妹”の遺影を見て、こう思ったといいます。
優しかったあなたが、突然、頑固でわがままな人になってしまったのはなぜ。誰かれ構わず、怒りをぶつけていたのはどうして。なぜ、あなたは周りの人をこんなに混乱させたまま、逝ってしまったのでしょうか。
「あなたを受け止めるべきだった」と後悔も
やるせなさから怒りにも似た感情を抱く浅丘。それと同時に、さまざまな病気にかかり、夫も子もなく一人で寂しさに打ちひしがれる中、どんどん心を閉ざしてしまったのであろう大原に対して、何もしてやれなかったことを悔やむ一節も残しています。
私のことを拒否しても、姉として、あなたをちゃんと受け止めてあげるべきだったのです。優しく、後ろから背中をさすってあげればよかったんです。本当にごめんね麗子、ごめんなさい。
怒り、悲しみ、後悔、愛情……。さまざまな浅丘の感情と共に語られた弔辞には、大原麗子という一人の女性を死してなお魅力的に輝かせるパワー、情念のようなものが込められていました。
誰に看取られることもなく、孤独のうちに亡くなっていった大原でしたが、これだけありったけの愛も憎も綯交ぜに語ってくれる“姉”が一人いただけで、幸せな人生だったといえるのかも知れません。
(こじへい)
※文中の画像はamazonより女優 浅丘ルリ子