思えば遠くに来たもんだ。
2003年以来の復帰だが、あの時28歳だった若者は、42歳の大ベテランとなり所沢に帰還。メジャーリーグで7年間、楽天で7年間、93年ドラフト3位で指名された松井が西武で1軍デビューをしたのはもう20年以上前になる。
球界では天才イチローとゴジラ松井秀喜の新時代が到来し、野茂英雄がアメリカへと渡り、まさに時代の変わり目ど真ん中。音楽業界では小室哲哉プロデュース楽曲がJ-POP市場に革命を起こしつつあり、ゲーム業界ではプレイステーションとセガサターンが任天堂スーパーファミコン一強時代にピリオドを打とうとしていた。
85年から94年にかけて、10年間で9度のリーグ優勝とまさに黄金期にあった西武ライオンズも、90年代中盤にはFAやトレードで秋山幸二、石毛宏典、工藤公康ら当時の最強メンバーがほとんど去り、名将・森祇晶監督も辞任、96年オフには清原和博までもが巨人へFA移籍。
ちなみに96年シーズンは111試合目まで最下位に沈み、最終的に意地を見せて3位に滑り込んだものの最強西武神話は終わりを告げた。
スピードスター松井稼頭央の登場
これからの西武はいったいどうなってしまうのか……。そんな時に颯爽と出現したのがスピードスター松井稼頭央だったわけだ。プロ2年目の95年に1軍デビューを飾ると、3年目の96年には130試合フル出場で50盗塁を記録。
秋の日米野球では打率.556、5盗塁と存在感を見せ、オフのテレビ番組『筋肉番付』で見せつけた驚異的な身体能力でついにその人気が爆発する。
リーグ連覇を達成した東尾西武
迎えた97年、東尾修監督は「1番松井62盗塁、2番大友進31盗塁、3番高木大成24盗塁」の新オーダーにチーム再建を託し、なんと12球団ぶっちぎりトップの“チーム盗塁数200”という金字塔を打ち立てる。
彼らを返すのは3割・30本・100打点をクリアした“マルちゃん”ことドミンゴ・マルティネスや、清原のあとを継いで4番を任せられ94打点をマークした鈴木健。黄金時代の生き残り35歳のベテラン捕手・伊東勤もまだまだ健在だった。
投手陣ではリリーフ転向前の豊田清が150.2回を投げ10勝、防御率2.93。
世代交代に成功した東尾西武は97年、98年とリーグ連覇を達成することになる。
東尾西武を支えた若い選手たち
97年と98年のオフ期間には2年がかりでホームスタジアムの観客席やグラウンドに屋根がつけられ、名称も西武ドームへ。
名実ともにひとつの時代が終わり、新しいチームを作ろうとした東尾監督とそれを可能にした20代前半から中盤の若い選手たち。
93年ドラフト1位石井貴(三菱重工横浜)、3位松井稼頭央(PL学園)、94年2位小関竜也(国学院栃木高)、3位西口文也(立正大)、95年1位高木大成(慶應大)、2位大友進(東京ガス)、96年2位故・森慎二(新日本製鐵君津)と主力の多くは近年入団した選手と80年代から続くドラフト巧者ぶりも健在だった。
なおこの96年4位でのちの名球会入り打者・和田一浩(神戸製鋼)をしっかり抑えているところも見逃せない。
ちなみに97年秋には、長嶋茂雄以来の六大学のスターと称された高橋由伸(慶応大)の逆指名レースを直前までリードが伝えられたが、最終的には巨人のマネーパワーの前に涙を飲んだ。
ここでひとつの妄想をすると、もしも高橋由伸が西武に入っていたらその後の球界勢力図も大きく変わっていたのではないだろうか?
高橋由伸が西武に入団していたら……
75年10月生まれの松井稼頭央と75年4月生まれの由伸は同学年。98年に連続盗塁王でイチローを抑えパ・リーグMVPに輝いた背番号7と、99年に打率.315、34本、98打点をマークした背番号24がもし同じチームにいたら……。
イケメンで華があり、女性や子どもにも大人気だった二大スター。それに加えて98年ドラフト1位の怪物・松坂大輔フィーバーと来れば、90年代末の西武ライオンズは黄金時代を凌ぐ爆発的な人気を獲得していたのではないだろうか。
「松井秀喜・高橋由伸」のMT砲ではなく、「松井稼頭央・高橋由伸」のMTコンビも見てみたかったものだ。
事実は小説より奇なり。
(参考資料)
『ノスタルジックベースボール2 プロ野球1990年代』(ベースボール・マガジン社)